不朽#市村清
 前回に続き、リコー三愛グループの創業者、市村清のインタビューである。理化学研究所の感光紙事業から派生したリコーをはじめ、婦人服販売の三愛、ショッピングセンターの西銀座デパート、結婚式場の明治記念館、航空機燃料に強い三愛石油、日本初のリース会社である日本リース、リコー時計(現リコーエレメックス)、日米コカ・コーラボトラーズ(現コカ・コーラボトリングジャパン)など、200社を超える事業を起こし、率いた。

 インタビューが掲載された1965年9月30日号というのは、オリンピック後に吹き荒れた不況の真っ最中。この昭和40年不況(証券不況)はわずか1年で収まり、再び日本は高度経済成長の波に乗るのだが、市村は知る由もない。無配に転落した中核企業のリコーをはじめ、各企業について再建の見通しを述べている。

 後半の最初の話題は、「サイエンス・ランド」に関する釈明だ。サイエンス・ランドというのは、神奈川県の辻堂海岸にあった旧海軍演習場を、国有地払い下げにより計画されたレジャー施設である。計画は神奈川県知事の内山岩太郎が発起人となり、財界有名人98人が連名し、市村が社長に担がれた。しかし、計画の背後には“元総会屋”とされるフィクサーが存在し、財界の“スター“たちをまとめ上げるべく暗躍していたことが明らかになり、国会で取り上げられる問題にまで発展した。計画は結局、頓挫することとなる。

 業績悪化のさなかのインタビューだからか、市村の発言は終始謙虚だ。「私個人としても、いろいろ苦労はしてきたが、私は事業家になってから、順調にいき過ぎた。人間は万能ではないから、ここまで伸びたら、いっぺん試練を経ないと本物にはならない。だから、ある意味では、ありがたい試練にぶつかっているのだと思う」。

 後半では、不眠に悩み、睡眠薬や酒に頼っていることも明かしている。しかし、先の大戦で数万の人間が死んでいったことを思い、それに比べれば今の自分の苦しみなどはものの数ではないと悟り、「この程度で眠れないなどというのは情けないことだと思って、気持ちを取り直した。そうしたら、ずっと眠れるようになった」という。多くの経営者が師事した“経営の神様”の貴重な肉声である。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

不採算部門は勇敢に撤収
第一歩から出直す

1965年9月30日号
1965年9月30日号より

 サイエンス・ランドは、8月27日重役会を開いて、1日も早く解散するということにした。一番最初にもくろんだ御喜家康正君(経済雑誌「評」の発行人)とか、八幡の藤井丙午副社長、コロンビアの長沼弘毅会長、富士銀行の岩佐凱実さん、それに後から社長になった私などが、今日までの損失金を負担して、株主の皆さんには損をさせない建前で、払込金だけ、きれいにお返しすることにした。

 できるならば、銀行利子ぐらい付けてお返ししたいと思ったが、そうなると少し損失が大き過ぎたので、元金だけでご勘弁願うということで、取締役会、総会の了解を得て、サイエンス・ランドは終止符を打つことになった。

 リコー時計(現リコーエレメックス:1962年に、経営不振だった時計メーカー、高野精密工業の社長に就任し、社名も変更した)については、ご承知のような事情で、住友銀行(現三井住友銀行)と東海銀行(現三菱UFJ銀行)がぜひというので、私が無理に引っ張り出されたのだが、経営者としては、自分で失脚したと思っている。2回にわたって辞意を表明したが、引き続いてやってくれという強い要請があり、資金の方は丸抱えで、面倒を見るということで、またやることになった。

 しかし、これも思い切った合理化をやらなければダメだろうと思う。

 まず、不採算部門は勇敢に撤収作戦を取る。そして第一歩から出直すという覚悟が必要だと思う。