室町時代の能楽師・世阿弥。能役者、作家であり、結崎座(観世流)を率いる経営トップでもあった世阿弥が、後継者のために能の教えを残したのが、『風姿花伝』と『花鏡』だ。
前回に引き続き、連載『名著で読み解く新常態』の著者・秋山進氏がコーディネーター役となり、世阿弥を敬愛するジャパネットたかた創業者の高田明氏と観世流能楽師の武田宗典氏が世阿弥の名言を取り上げ、現代社会を生き抜くヒントをそれぞれの立場から語り合う。3回シリーズの最終回は、『風姿花伝』の最重要キーワードでもある「花」にまつわる言葉の数々を取り上げて議論する。(※「高田」の正式な表記は“はしご高”)
※前々回記事「世阿弥の名言「初心忘るべからず」の真意、初心は老後にも持つべきものだった!」
前回記事「高田明さんのプレゼン術の真髄は、世阿弥の名言「離見の見」にあった!」
花はどこにでもある
見つける心も大切
秋山 前回は、「我見、離見、離見の見」などを取り上げ、パフォーマンステクニックの極意について議論しましたが、今回はもっとも重要なキーワードである「花」について話していきたいと思います。例えば、
「花と面白きと珍しきと、これ三つは同じ心なり。何れの花か散らで残るべき。散るゆえによりて咲く頃あれば珍しきなり。能も住する所なきを、まず花と知るべし」
「時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり」
「秘すれば花」
と、花にまつわる世阿弥の名言は、いろいろありますね。
能楽師観世流シテ方準職分、重要無形文化財総合指定保持者、一般社団法人観世会理事
1978年1月20日生まれ。観世流シテ方職分武田宗和の長男。父及び二十六世観世宗家・観世清和に師事。早稲田大学第一文学部演劇専修卒。80年「鞍馬天狗」花見にて初舞台。88年「菊慈童」にて初シテ(初主役)。2012年初の単独自主公演にて「道成寺」を勤める。17年自主公演『武田宗典之会』を発足させる。年間100公演ほどの舞台を勤める傍ら、能楽講座「謡サロン」等の初心者向けレクチャーを全国各地で開催。また海外でも多数の公演に出演し、そのプロデュースも行っている。その他、クラシック音楽やダンス・映像等とも積極的にコラボレーションを行い、能楽の新しい可能性を広げることにも尽力している。
Photo by Toshiaki Usami
武田 能の花は飾り立てた花ではなく、道端に咲いている花のように、気づかない人もいますが、気づいた人はこの花はいいねというようなものだと思います。花そのもの以上に、花を見つけようとする心、花に気づく心がさらに大事ではないでしょうか。
道端の花は見てほしくて咲いたのではなく、生命の発露として咲いた結果として、道行く人の目を楽しませる。そういう感覚で舞台に立つのが理想です。その気になれば、あらゆるところに能、そして、人生の花につながるヒントもあるので、それを見つけられるかどうかは自分次第だと思っています。
高田 実はコロナ禍で散歩をする機会が増え、道端の花の写真を撮っています。それを見るだけでも面白いですし、10秒ぐらいの動画で、ただ揺れているだけの花を見ると、異様に心がかき立てられます。あらゆるところに花を見つける精神は本当に大切だと思います。
そして、ビジネスにおいては、お客様を楽しませるものが花ではないかと考えています。例えば、番組にも「おもしろき」「珍しき」サプライズがなければ長く見ていただけないですよね。花だけでなく、花の表し方も工夫しなければなりません。花とは、おもしろい、珍しいと思ってもらえること。世阿弥は、これを能の世界が100年、200年続くものと想定して言っています。そう考えて実践したからこそ、今、能が残っているのでしょうね。
秋山 そして、「時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり」(『風姿花伝』より)にあるように、若さゆえの美しさである時分の花から、年齢に関係なく普遍的な真実の花に変わるというくだり。これが非常に難しいことだと思うんですが。