ウェブ会議アプリの画面は、常にプレゼンの場である。質問、コメント、提案、意思表示。一方、小さい画面に映っているあなたの表情やしぐさまでは誰も注目してくれない。何も発言しない人は、もはや空気ですらなく、存在しないと思われているかもしれない。営業においても、何度も会って人間関係を作るような状況にはない。コロナ後でも、その傾向は強まりそうだ。オンライン上の15分一回勝負のような場で、自社サービスへの興味を獲得しなければならない。だからこそ新しい仕事の仕方が求められる。
そのヒントとして、今回取り上げるのは、約600年前に書かれた能楽の書『風姿花伝』である。室町時代、能楽が上流階級に受け入れられ、競争が激しくなるなか、能楽の演者はどうあるべきかについて、希代の能楽師、世阿弥が書き残した秘伝の書だ。能楽は高尚でとっつきにくいと思われる向きもあるだろう。しかし世阿弥が説くのは、ひとつにはパフォーマーとしての心得であり、芸道を極めた人のそれは、ごく卑近なところでは現代のビジネスパーソンがオンラインでの振る舞いをいかにすべきか、ひいては自分の力をいかに会社で発揮していくかに、そのまま通用する神髄を伝えている。
能楽では「花」こそすべて
若さゆえの一時的な花はすぐ消える
世阿弥によると、能の演者にとってもっとも大事なのは「花」だという。
いかなる名木なりとも、花の咲かぬ時の木をや見ん、犬櫻の一重なりとも、初花色々と咲けんをや見ん
(どんな名木であっても、人は花が咲いていないときの木をみません。一重のありふれた櫻であっても、新しい花がたくさん咲いている木があれば、観衆は必ずそちらを見るのです)
花とは、新鮮さ、面白さ、珍しさのことである。
世阿弥が、能の演技を花にたとえ始めたのは、花が四季折々に咲き、その時々でつねに新鮮な感動を呼び起こすからだという。能もまた、人の心にその時々の新鮮な反応を呼び起こす。また花は散る。だからこそ、咲くときの新鮮さが際立つ。能もその場にとどまらず、どんどん移っていくからこそ新鮮になるという。能の演者の輝かしい姿は、まさに花にたとえるのにふさわしい。
しかし、花のある演者でいつづけるためには、不断の努力をつづけなければならない。子どものかわいらしさ、若き日の美声や勢いなどが生み出す一時的な花というのもある(時分の花)。これらは往々にして過大評価され、当人も自分には才能があると誤解するのだが、このような一時的な花はすぐに消え去る。
若い頃、絶大な人気を博していたアイドル歌手、早熟の天才ともてはやされ、その後ITバブルがはじけて消えていったネット系ビジネスの起業家などを思い浮かべると、わかりやすいかもしれない。
したがって、演者はひたすら稽古に励むことが求められるのだが、その際も常に花を意識しなければならないという。