夢をあきらめるのは、挫折ではない

  夢を叶えたいというのも、「欲求段階説」の最上位の欲求の一つにほかならない。
  自分の夢を持ち、それに向かって努力するのはすばらしいことだが、その前に下位の欲求を満たす必要があるのではないか。

  以前、私にはどうしても叶えたい夢があった。
  そして夢を語ると、多くの夢を持つ人との出会いがあった。朝まで飲んで語り合い、夢が実現したときのすばらしさを共有した。

  しかし、なかなか私の夢は実現しなかった。
  苦しい時期が何年も続いた。
  私の周りにいる友人たちも同じだったと思う。夢を語る分だけ、愚痴も多くなり、世の中に対する不平・不満も募らせていった。
  些細なことで苛立ち、同じように夢を持っているのにもかかわらず、子どもじみたケンカをした。
  30歳をすぎても、「棘」ばかりが増え、自分を見失うことが多々あったようだ。

  私はいろいろなものを犠牲にした。お金も、時間も、友人も、支えてくれた恩師さえも浪費した。
  いまだからよくわかる。

  下位の欲求が満たされないまま自分の夢を追い続けるのは、非常に難しいということを。

  それができるのはごく一部の天才だけではないか、と。

  自己実現欲求をあまりに求めすぎて、目の前の仕事に身が入らず、家族との関係も悪くし、体調もおかしくなって入院したりと……、心も体も、周囲からの視線さえも不健全になっていた私は、目指していた夢に近づくどころか、ドンドン怠惰になっていき、当然のことながら夢から遠ざかっていった。

  あげくのはてに自己啓発セミナーの講師から、「あなたが本当にやりたいことをやりなさい。そうすれば夢は叶う」と言われ、その言葉を真に受けて実践したところ、多くの人から失望された。
  取り返しがきかないほど信頼を失ってしまった。
  あたりまえのことが、まるであたりまえのようにできなくなっていったからだ。

いまの仕事ができることに感謝

  私は以前、「夢」のない人生なんて意味がないと思い込んでいた。
  私の周囲にもそういう人ばかりいた。

  しかし、いまはこう考えている。

  普通の仕事に就いて普通の生活ができること、衣食住が満たされて経済的にも健康的にも困らずに生きていけること、その生活に夢がないと言ったら、とんでもない話だ、と。

  それに、現在その「あたりまえのように思える生活」が満たされていない人が大勢いる。

「夢のない人生なんて意味がない」などと言ってしまったら、その人たちに対して失礼だ。

  その人たちにとっては、毎日きちんと食事ができて、健康にすごせるだけでものすごく夢のある生活だからだ。
  よく「本当は○○になりたかったけれど、挫折してサラリーマンになった」という人がいるが、一般企業に入って一所懸命に仕事をし、家族との生活を守っているのなら、それはそれですばらしいことであり、決して挫折でも失敗体験でもない。消去法によって選択した生き方でもない。

  もちろん、夢を持つことを否定しているわけではない。
  夢を叶えたいという気持ちが原動力となって、目の前の仕事に一所懸命取り組める人もいるからだ。
  過去の私のように大きな夢にだけ焦点を合わせ、脳に巨大な空白をつくっておきながら、その埋め方もわからないまま、人生をすごすことだけはしてほしくないということだ。