転職サイト「ビズリーチ」などを運営する巨大スタートアップ、ビジョナル。『突き抜けるまで問い続けろ』では創業後の挫折と奮闘、急成長を描いています。「ビズリーチ」を一躍有名にしたのがテレビCMです。女性が人差し指を立てて「ビズリーーーーチ!」と言うシーンを記憶している人も多いでしょう。印象的なCMですが、実はこれは同社が窮地に追い込まれて仕掛けた最初で最後の大勝負だったのです。一体、どのような経緯でテレビCMが誕生したのでしょうか。『突き抜けるまで問い続けろ』第五章を一部編集して公開します。(本文は敬称略)
立ち上がらない企業向けサービス
2014年、ビズリーチ創業者の南壮一郎たちが、ビズリーチを世に広げるカギと考えていた「ダイレクトリクルーティング」の普及は、難航していた。
サービス開始から5年が経ち、求職者の会員数は2014年1月に20万人を突破していた。
しかし、ビズリーチを利用して直接採用する企業の増加ペースは、南の想定を大きく下回るものだった。インターネット業界の中ではある程度知られる存在になっていたが、だからといって、日本社会の中途採用の市場を根本的に変えるほどのイノベーションが起こせたとは言い難い状況だった。
当時の実態は、ビズリーチの収益構造が物語っていた。
この時期の決算を見ると、企業向けサービスの売上高は、会社全体の3割程度しかなく、当時、ビズリーチ事業を牽引していたのは、ヘッドハンター向けの売り上げだった。ヘッドハンターにとっては、ビズリーチの価値が分かりやすかったのだろう。
一方で、企業の経営者や人事担当者には、ビズリーチのメリットが浸透していなかった。明確な使い方が見えにくかったのである。
企業にとってみれば、自分たちのニーズを伝えるだけで適切な求職者を探してくれる人材紹介会社の方が負担は少ない。多少コストが高くなっても、費用対効果を考えれば、人材紹介会社に利がある。ビズリーチは人材紹介会社のメリットを上回ることができずにいた。
「人材紹介会社の強さは人が介在するところにある。求職者と企業、双方の顔色をうかがいながら、丁寧にフォローしてマッチングの精度を上げていく。こうした人間ならではのきめ細かな対応を、ビズリーチはテクノロジーの力で上回ることができていなかった」
当時、ビズリーチの事業部長だった多田洋祐はこう振り返る。自社のプロダクト開発力には大きな強みがある。そのために営業組織を鼓舞し、懸命に顧客開拓を進めてきた。しかし、それでも企業の経営者や人事担当者のマインドセットを変えるという壁は、なかなか突き崩せなかった。
直面した300人の壁
2014年夏ごろになると、ビズリーチの勢いに陰りが見えてきた。会員数の伸びの鈍化と共に、成約数のペースが落ち、社員数も300人を前に頭打ちになっていた。
事業の停滞は、そのまま経営の厳しさに跳ね返る。創業期に資金調達を実施して以降、銀行から数億円の運転資金の借り入れだけでここまでやってきた企業体力が、じわりと削られつつあった。
インターネット業界ではビズリーチの認知度はある程度広がり、スタートアップや外資系企業での利用も進んでいる。しかし、世間一般に浸透したという状態にはほど遠い。
日本の大手企業が、ごく当たり前にダイレクトリクルーティングを活用するようになるには、どうすればいいのか――。
南は追い詰められていた。
「みんながそれぞれの持ち場で必死に奮闘し、成果も上がってきている。それでも社会を変えるほどのインパクトを与えるには、もう一段大きな“空中戦”を仕掛ける必要があった。いろんな施策を打ったが、ことごとく機能しなかった」
だが、南はあきらめなかった。
当時のビズリーチの企業向けサービスの月間売上高は数千万円程度。ただ、ゆくゆくは日本でも雇用の流動化が進み、人材獲得競争が激化する。この先も企業向けサービスに投資していけば、絶対に何十倍もの伸びしろがある。
その結果に到達するには、頑張るだけではダメだ。ブレークではなく、ブレークスルー。あらゆる手を尽くしてやり切る必要があると覚悟を決めた。
「人生で一番キツい時期」
しかし、2015年に入っても現場でブレークスルーの兆しは見えなかった。
それぞれのチームが力を合わせて、人材採用セミナーやメディアへのダイレクトリクルーティングの売り込みなど、様々な企画を立案して企業の採用担当者に働きかけていた。それでも、一向に変化が広がる気配はない。
しびれを切らした多田は、2015年の夏に営業組織の総力を挙げた強化策を打ち出した。新規の企業を獲得するのではなく、成約件数を増やすために人とカネを振り分けるという、乾坤一擲の施策を打った。
だが、結果的にはほとんど成果を出せずに惨敗した。この時期、多田はそれまで経験したことのなかった5ヵ月連続の目標未達という屈辱を味わっていた。
「人生で一番キツい時期だった」
当時の状況を振り返る多田の口数は少ない。多田だけではない。南も追い詰められているように、周囲には映っていた。
「経営陣くらいしか知らなかったが、当時は相当ギリギリまで追い詰められていた。南は絶対にそのことを現場で口にしなかったけれど、それでもピリピリした雰囲気が漂っていた」。当時、財務経理室長を務めていた服部幸弘(現ビジョナルグループ戦略室長)はこう振り返る。