後編は、二・二六事件後の1936年に池田成彬が退任してからの話である(池田はその後、第14代日本銀行総裁に就任、大蔵大臣なども務める)。ますます軍国主義がはびこる中、三井は軍部から目の敵にされていたと佐々木は回想する。
実は当時、三井家の中で相続税問題が発生しており、多額の相続税の支払いで三井財閥は存亡の危機にあった。そこで相続税を回避するために三井合名を三井物産に合併するという“秘策”が編み出された。しかし準戦時体制下の当時、資金統制令が出ていて会社の設立、合併には政府の許可が必要だった。
この話を聞き付けた、時の陸軍大臣、東条英機(41年対米開戦時の首相)から佐々木は再三呼び付けられ、「三井は国策に協力しない非国民であるといって、お叱りを受けた」という。その結果、「三菱や住友が全力を挙げて協力しているのに三井は軍需工業に見向きもしない。合併は許すが、三井が国策に協力する“実”を示せ」といわれたことで、軍需工業への転換を迫られる。
晴れて三井合名を合併した三井物産だったが、それまで同列だったグループ有力企業を統制する力がなかった。いくら軍需工業化の旗を振っても、どこも従ってくれないのだ。「三井鉱山は石炭や亜鉛を掘るのには熱心だが、新たに資金を投入して、飛行機工場を造るというような話には、全然乗ってこない」と佐々木は振り返る。これでは政府との約束がほごになりかねないと、佐々木らは再びガバナンス改革を始める。かくして、三井物産を、三井関係会社の統括を行う三井本社と、貿易部門に分けるという計画を打ち出し、44年3月に三井本社が誕生した。
「今から見ると、財閥は外からではなく、内部から崩壊する運命にあった。ガタガタになっていたのである。あのままでは、戦後おさまりがつかなかったと思う」と佐々木は述懐する。間もなく終戦となり、三井本社はGHQ(連合国軍総司令部)の財閥解体方針によって、わずか2年半で解散となるが、結果的にはこれがグループの再構築・再出発を助けた皮肉な面もあるだろう。「敗戦によって財閥解体が命ぜられたが、それも、われわれがすでに考えていたことを、荒っぽく、しかも広範に実行したにすぎないのである」という佐々木の言葉は、あながち間違いではなさそうだ。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
池田成彬の退陣と
後任の自由主義者・南条金雄
二・二六事件後、池田成彬さんは辞意を表明した。三井高公氏の慰留にかかわらず三井を退陣した。これは三井内部の極秘の話だが、池田さんが三井当主の総退陣を声明したために非常な反対が起こり、当主の1人は、この問題で池田さんと大衝突をした。
池田さんは励声叱咤して、つまみ出したような事件もあったのである。池田さんも、これではとても自分の主張を通すことが困難であるのみならず、内外の大問題処理に、いたく健康を損ねたので、勇退を決意されたのであろう。
それで、池田さんの女房役であった南条金雄氏が、自然にその後任になった。