三井財閥存亡の危機、軍部や右翼から強請られ続けた昭和初期の証言(前編)
 3回連続でお届けしている三大財閥の“番頭”たちの手記。今回は三井合名で取締役総務部長を務めた佐々木四郎。1944年から3年間、三井不動産の社長を務めた人物だ。

 三井家は江戸時代に三井高俊が伊勢国の松坂(現在の三重県松阪市)に開いた質屋兼酒屋「越後殿の酒屋」が起こりで、後に高俊の四男高利が江戸で呉服店を開業し、屋号を越後屋(現三越)とした。高利は江戸で成功を収めて巨万の富を手にするが、その遺産は息子と娘たちが分け合うのではなく、11家に及ぶ子どもたちによって共有運用されることになる。三井家の資産は「三井家大元方」と名付けられた家政と家業の統括機関の下で一元的に管理され、同族企業体の発展に用いられた。そして明治の終わりに三井大元方は、欧米の財閥組織に倣って持ち株会社組織に改組され、三井十一家を大株主として三井合名が設立される。

 佐々木が繰り広げる昔話は、昭和初期から第二次世界大戦にかけて、主に軍人たちに振り回される三井財閥の姿である。1927(昭和2)年の金融恐慌に続き、29年に昭和恐慌が発生。そして不況の真っただ中の31年9月に満州事変が勃発、それにより株式・商品相場が大暴落する。そんな中、昭和金融恐慌の最中に三井がドルを買い占めて利益を得たことで「国賊」とのそしりを受け、三井合名理事長の団琢磨が右翼組織に暗殺される。

 それを機に、国内では政財界の要人がテロの対象となる事件が相次ぐ。武装した海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、犬養毅首相を殺害した。五・一五事件、陸軍皇道派の青年将校ら1483人が「君側の奸」と見なした政府要人を襲い、高橋是清蔵相らが殺害された二・二六事件などを経て、日本は軍が政治的な力を持つ軍国主義国家へと突き進んでいった。

 こうした時代の中で、三井財閥が軍に敵視され、翻弄される様子を、佐々木は事細かに証言している。32年に三井合名の筆頭常務理事として事実上の三井財閥総帥となった池田成彬が、三井合名から三井家を退陣させ、世間の財閥批判から矛先を交わそうとした経緯や、右翼団体や青年将校の強請(ゆす)りたかりによって、多額の金を拠出させられたエピソードをたっぷりと披露している。長い記事なので、前後編に分けて紹介しよう。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

ファシストに暗殺された
團琢磨・三井合名理事長

ダイヤモンド1952年3月15日号1952年3月15日号より

 昭和の初め、右翼および少壮軍人の結合によるファシスト運動が盛んになるにつれて、財閥の首脳部、例えば三井合名の理事長團琢磨氏や三井八郎右衛門氏などが、革新分子の暗殺の目標になっているから、十分注意を要すると警視庁方面から警告された。

 團さんは、自分は少しも殺されるような悪い事はしていないと言って、たびたび忠告されたにもかかわらず、断然、護衛を付けることを拒絶していた。

 ところが、1932(昭和7)年の5月10日、突然、三井銀行の前で暗殺されてしまった。三井合名をはじめ一同はがくぜんとして、今更事の重大に驚いた。