セックス・ピストルズの「アナーキー・イン・ザ・U.K.」
を聴いて衝撃を受ける

海外のアートシーンではあり得ない、日本特有の不思議な現象とは? 秋元雄史(あきもと・ゆうじ) 1955年東京生まれ。東京藝術大学大学美術館長・ 教授、および練馬区立美術館館長。東京藝術大学 美術学部絵画科卒業後、作家兼アートライターとして活動。1991年に福武書店(現ベネッセ コーポレーション)に入社、国吉康雄美術館の主任研究員を兼務しながら、のちに「ベネッセアートサイト直島」して知られるアートプロジェクトの主担当となる。2001年、草間彌生《南瓜》を生んだ「Out of Bounds」展を企画・運営したほか、アーティストが古民家をまるごと作品化する「家プロジェクト」をコーディネート。2002年頃からはモネ《睡蓮》の購入をきっかけに「地中美術館」を構想、ディレクションに携わる。開館時の 2004年より地中美術館館長/公益財団法人 直島福武美術館財団常務理事に就任。ベネッセアートサイト直島・アーティスティックディレクターも兼務。年間3万人弱だったベネッセアートサイト直島の来場者数が2005年に12万人を突破。初の単年度黒字化を達成。2006年に財団を退職。2007年、金沢21世紀美術館館長に就任。国内の美術館としては最多となる年間255万人が来場する現代美術館に育て上げる。10年間務めたのち退職し、現職。著書に『武器になる知的教養西洋美術鑑賞』『一目置かれる知的教養日本美術鑑賞』(ともに大和書房)、『直島誕生』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『おどろきの金沢』(講談社+a 新書)、『アート思考』(プレジデント社)等がある。

秋元 西陣織を革新していくというか、新しいことに挑戦していこうというのは、どの辺りから躊躇がなくなってきたの?

細尾 そもそもは西陣織を海外に展開していきたい、と思ったのがきっかけですね。誰もまだやってないことへの挑戦に魅力を感じて、家業を継ごうと決意しました。私は20代前半の頃までは、プロのミュージシャンとして活動していました。中学3年生でギターを手に入れて、最初はコピーバンドをやって、段々上手くなってプロになっていくもんだと思っていたのです。でも、他人の曲をコピーすることに興味が全然持てなかったのです。そんな中、高校1年生のときにセックス・ピストルズの「アナーキー・イン・ザ・U.K.」を聴いて、衝撃を受けました。

秋元 どういう衝撃?

細尾 つまり演奏の上手い下手ではなくて、ギターをかき鳴らして叫ぶことでも音楽って成立するんだな、と(笑)。

秋元 およそ西陣織とは結びつかなさそうな、凄いところへ行っちゃっているね(笑)。

細尾 そうですね。それまでの私は「音楽はプロがつくるものだ」という固定観念にとらわれていたんだと気づきました。でも、情熱をもって何かをすれば、誰でも自分たちでオリジナルはつくれるんだと。そこからオリジナルのパンクバンドをはじめました。コピーバンドはつまらなかったですけど、これにはとても夢中になり「音楽を生業にしよう!」と思ったのです。自分が固定観念を打破できた、初めての体験が、このセックス・ピストルズとの出会いでした。

秋元 技術とかテクニックではなく、とにかく自分たちが今一番リアルに思っていることをダイレクトに伝えればいいんだ、みたいな。そこがアート的な原体験なんだね。

細尾 そうですね。今から思えば、カウンターカルチャーにすごくピンとくるところがありました。セックス・ピストルズもやっぱり、イギリスという階級社会へのカウンターカルチャーですよね。

秋元 非常に古いカルチャーがある中で、そういうものが出てきた。

細尾 同じく高校生の頃、裏原系といわれるストリートファッションにも惹かれていました。ファッションブランドの「UNDERCOVER」とか、「A BATHING APE」とか、それまでのメインストリームじゃないところから出てくる、何かそういう革新の部分に惹かれていたんですね。