生きづらさをもたらす「暗黙の標準」に気づく

 このところ、卒業論文のテーマとしてLGBTを取り上げたいと言う学生が増えている。時代の流れに敏感な学生ならではの関心だと思う一方、メディアで目にしたり、授業で耳にしたりしたトピックに対する関心にすぎない場合も多い。

 しかし、実際に卒論に取り組むことになると、LGBTの問題が他人事ではすまなくなっていく。「なぜ私がこの課題に取り組むのか」ということを自分で自分に問うようになっていくからである。この問いは、LGBTの問題が自分自身の性に対する意識とつながっているという気づきを生み、その意識が自分自身のあり様にも決定的な影響を与えているのだという自覚を生み出す。他人事だった問題に当事者意識が芽生えると言っていい。そうした思考の結果、LGBTの人たちが訴える生きづらさは、自分自身の生きづらさとつながっているのではないか、という問いが生まれていく。

 このような過程をたどる学生たちの卒論執筆をめぐる苦闘は、見守り甲斐がある。自分を知り、他者を知り、自分と他者との関係を成り立たせている社会を知るということが、学生たちにとって大切なことだと私は感じているからである。

 例えば、神戸大学大学院の博士前期課程で学んでいる土居綾美さんは、自分自身がギフテッド(先天的に特異な才能をもっている人)であることによって経験した生きづらさに焦点を当てて、学生生活を過ごしている。才能があるのはよいことであるはずなのに、なぜ生きづらさが生まれるのかということを考えていく中で、人間のあり方を枠付ける「暗黙の標準」が存在することに気づき、この「暗黙の標準」から外れた人たち全体に関心を広げてきた。「誰だって普通こういうときは○○するよね」という私たちの何気ない会話は、「普通」という標準から外れる人たちを暗に否定している。その標準は法律に書かれているわけではないし、漠然としたものだが、人を従わせる力を持っている。LGBTの存在も障がいの有無も、「暗黙の標準」を浮き彫りにする課題として、ますます彼女にとって他人事ではなくなってきている。

 多くの若者が抱える生きづらさの根っこに、こうした「暗黙の標準」があるのではないだろうか。他者をやさしく気遣う関係に埋め込まれた「暗黙の標準」は、人々に「普通」であることを強要する。その「暗黙の標準」に気づくことで、若者たちは他者の生きづらさと自分の生きづらさとの間につながりがあることを発見する。