「追悼」がはらむ、「権力勾配による暴力」再現の危険性

 私は映画などエンターテインメントに精通しているわけではないが、近年の「MeToo運動」を含め、性暴力を取材してきた立場から思うのは、「作品と人格は別」「犯罪を犯した人の作品でも見る(見られる)権利はある」といったこれまで押し通されてきた理屈に、新たな角度から検討が加えられ始めているのではないかということだ。

 性暴力のほとんどは、権力勾配の下で行われる。

 キム・ギドク監督が自らの権威(あるいは芸術無罪の風潮)によって暴力や性暴力を行っていた事実を考えれば、没後1年に合わせた特別上映というかたちでの「追悼」がはらむ危険性に気付いたはずだ。それは、監督にもう一度権威を与えることになる。

 また、被害者の多くが沈黙を余儀なくされたのは、監督に権威・権力があったからだ。追悼上映は、本人がこの世から去ってもその権威・権力は残り続け、それを崇拝する人の存在を明らかにしてしまう。被害当事者にしてみれば、支配の構造がそこに再現される。加害者が表舞台から消えても被害者の被害後の人生は終わらないことに留意すべきだった。

 性暴力を含むあらゆるハラスメントの被害者の訴えは、加害者側の理屈によってまるめこまれてきた。芸術分野で著しいのは、「優れた芸術家は、人格的に問題がある場合もあるものだ」といった言説や芸術至上主義の風潮だろう。

 しかし、近年のMeTooや、あるいは制作現場での労働環境改善を求める動きによって問い直されているのは、端的に言って人権だ。

 配給会社からの見解に、せめてほんの少しでも被害当事者側の視点がすくいとられていたら反応は違ったかもしれない。個人的な印象では、キム・ギドク監督に思いを寄せた権威側の主張の繰り返しに見えた。