重要な政治決定の裏側には、スパイが絡んでいる。かつての国際的な危機や紛争、国家元首の動きもすべてお見通しだった。それは単なる偶然ではない。政治指導者の力でもない。さまざまな情報を分析したスパイたちのおかげだった。イギリスの“スパイの親玉”だったともいえる人物が、『イギリス諜報機関の元スパイが教える 最強の知的武装術 ――残酷な時代を乗り切る10のレッスン』を著した。スパイがどのように情報を収集し、分析し、活用しているのか? そのテクニックをかつての実例を深堀りしながら「10のレッスン」として解説している。マネジメントを含めた大所高所の視点を持ち合わせている点も魅力だ。本書から、その一部を特別公開する。
通信傍受機関からの衝撃的な報告
1982年3月、ロンドン中心部のウェストミンスター宮殿(国会議事堂)で、マーガレット・サッチャー英首相は顔をしかめて、私が手渡した報告書を読んでいる。そして、「これはまずいわね」と言った。
「はい、首相」と、私は答えた。「報告書からは、アルゼンチン政府がフォークランド諸島へ侵攻する準備を完了しつつあるとしか読めません。おそらく、今度の土曜日でしょう」
1982年3月31日水曜日、午後のことだった。
私は当時、ジョン・ノット国防大臣の主席秘書官だった。英議会下院の大臣執務室でスピーチの準備をしていると、国防情報参謀部の係官が、特徴あるフォルダーが入った、カギつきの書類入れを持って大慌てでやってきた。
濃い色の表紙に赤い斜め十字が入っているのを見て、私はすぐにそれが特別な暗号「UMBRA」(アンブラ)による最高機密を含んだ、イギリスの通信傍受機関、政府通信本部(GCHQ)からの知らせだとわかった。
フォルダーに入っていたのはアルゼンチンの海軍通信を傍受し、暗号を解読した通信文だった。アルゼンチンの潜水艦がフォークランド諸島の首都ポートスタンリー周辺に偵察のために配置され、演習中の艦艇が再結集しているとのことだった。
さらに、4月2日金曜日の早い時間に、特別部隊がどこかに到着することを伝える情報もあった。艦艇の座標を分析した結果、目的地はポートスタンリーに間違いないとGCHQは結論を出していた。
ジョン・ノット国防大臣と私は顔を見合わせた。考えていることは1つだった。フォークランド諸島を失えば、サッチャー政権の存続が危うくなる。すぐに首相に知らせなければ。私たちは下院の廊下を急ぎ、首相の執務室に入ると、すぐに報告した。
首相が内閣府の合同情報委員会(JIC)から受けとった直前の評価では、アルゼンチンはフォークランド諸島の領有権を訴えてはいるが、武力を用いるのは避けたいと考えているとのことだった。だが、イギリスがアルゼンチンに対して挑発的な行動に出れば、南大西洋にあるイギリス領サウスジョージア島を不法に占領しているアルゼンチン政府が、それを理由に軍事行動を起こしかねないとも警告していた。
イギリスはアルゼンチンの軍事政権を刺激するつもりはなかったため、JICの報告に安堵していた。だからこそ、最新の報告は衝撃的だった。そのときはじめて、アルゼンチンが、武力によって領有権を主張する準備ができていることが示されたからだ。
英ケンブリッジ大学を卒業後、国内外の情報収集・暗号解読を担う諜報機関であるイギリスの政府通信本部(GCHQ)に勤務、国防省を経て、GCHQ長官、内務省事務次官を務める。内閣府では事務次官や首相に助言する初代内閣安全保障・情報調整官(日本の内閣危機管理監に相当)、情報機関を監督する合同情報委員会(JIC)の委員・議長の要職を歴任したスパイマスター。『イギリス諜報機関の元スパイが教える 最強の知的武装術 ――残酷な時代を乗り切る10のレッスン』を刊行。
スパイはどのように論理的決断をくだすか
イギリスが突然、フォークランド紛争に突入することになった衝撃は、私の記憶の深くに、いまだ残っている。誤った判断が、どれほど大きな影響をもたらすかを見せつけられたからだ。
そうしたことは政治の世界だけでなく、個人の人生においても起こる。そこで読者のみなさんには情報分析官の考え方を学び、より良い意思決定ができるようになってもらいたい。それが本書の目的だ。
私が過去の経験から何を学んだかを紹介することで、この驚きに満ちた時代に直面する事態をより深く知り、説明し、予測するにはどうすればいいかを示したい。
スパイと呼ばれる情報部員(情報分析官)が、どのように論理的な決断をくだすかを知ることは、個人の人生に大いに役立つだろう。彼らが問題にとり組むときに何をするか、また近年の歴史において何をしたかを知ることによって、いかに考えを整理し、確実なことと不確実なことを区別して、より良い判断を導いているかがわかるからだ。
また、ほかの可能性をいかに入念に試すか、新しい情報を得たときにはどの程度、考え方を変える必要があるかも学ぶことができる。個人として、グループあるいは組織の一員としての無意識の感情が、どのように判断に影響するかを考えることも重要だ。さらに、私たちが陰謀論にとり憑かれやすいこと、意図的な策略に騙されやすいことも理解できるだろう。
私たちは、家庭で、職場で、遊びの場において、さまざまな選択や意思決定をしなければならない。昨今は決断をくだすまでの時間が、ますます短くなっている。IT時代に生きる私たちには、これまでにないほど多くの情報源から相反する情報、誤った情報、紛らわしい情報が押し寄せている一方で、あふれる情報に遅れず、反応することが要求される。
SNSでは、インフルエンサーたちがメッセージや意見をさかんに発している。こうした大量の情報にさらされて、私たちは逆に知識不足に陥っているのではないだろうか。
過去から学ぶ必要性は、これまでにないほど大きくなっている。