日本の学生スポーツが海外サッカークラブに学ぶべき「クビ」という幸福な制度「FC市川GUNNERS」代表でサッカー・コンサルタントの幸野健一氏。日本のスポーツの在り方について提言を行う

福沢諭吉は「教育ではなく発育」と100年以上前から訴えていた。教えるという上意下達式ではなく、寄り添う形で子どもの能力を伸ばすべきだと。固定された上下関係だと、教わる側は主体的に動きにくくなる。特にスポーツの場合は、その上下関係が色濃く出てしまうものだ。

「適切な競争原理を取り戻したい」と語るのは、サッカークラブ「FC市川GUNNERS」代表の幸野健一氏だ。サッカー専用の人工芝グランドを所有し、イングランドのアーセナルFCの公式スクールとして活動していたクラブだ。幸野氏は、サッカー・コンサルタントとして活動しており、小学5年生年代の全国リーグであるプレミアリーグU-11の実行委員長も兼ねている。スポーツの新しい捉え方を考える本連載、前回に続き、幸野氏に日本のスポーツの現在地について聞いた。(取材・文/上沼祐樹)

教育に取り込まれた日本のスポーツ
福沢諭吉の警鐘を改めて考える

 近代のスポーツは、いわゆる「男社会」の中から生まれたという背景があります。マスキュリニティ(男性性)ですね。競い合い、男らしさを証明するためにスポーツがあったのです。パワハラ的な要素が内包されているのも、そのせいでしょう。また、日本では武士道という精神指導もあるので、これらが合わさると、より強いパワハラが発生するのではないでしょうか。本来、楽しむためのものだったスポーツが、日本では上意下達式の精神論に置き換えられることもあるのです。

「もとより直接に事物を教えんとするもでき難きことなれども、その事にあたり物に接して狼狽せず、よく事物の理を究めてこれに処するの能力を発育することは、ずいぶんでき得べきことにて、すなわち学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。

 教育の文字はなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり。かくの如く学校の本旨はいわゆる教育にあらずして、能力の発育にありとのことをもってこれが標準となし、かえりみて世間に行わるる教育の有様を察するときは、よくこの標準に適して教育の本旨に違(たが)わざるもの幾何(いくばく)あるや。我が輩の所見にては我が国教育の仕組はまったくこの旨に違えりといわざるをえず」

 これは、福沢諭吉の『文明教育論』に記載されたものです。