明治時代に「エデュケーション」の概念が日本に伝わった際に、この言葉は「教育」と訳されました。しかし、「そもそも教育という言葉を当てはめるのは間違い」と、福沢は主張しているんです。上意下達式で上から物事を教えるのではなく、子どもの能力に寄り添って伸ばすべきというのです。

「教育」という、「教える」という言葉を使ってしまったことで、上下関係が成立してしまった。「教育ではなく発育」、これが福沢の捉え方です。100年も前から、この教育の問題を指摘しているんですよね。

日本の学生スポーツが海外サッカークラブに学ぶべき「クビ」という幸福な制度

 戦後の復興のなかで、企業社会においても「年功序列」「学歴社会」という仕組みが浸透していった。多くの日本人が中流家庭になる中で、こういった仕組みがあった方がコントロールしやすかったんですよね。良い大学に入れば、良い会社に入ってそのままあがり、という設定を何十年も続けて、今の日本に定着しました。

 ただ、私はそこに“適切な競争原理”がないと考えます。能力とやる気のある若い社員が入ってきても、力が発揮できない。さまざまな提案をしても、「働かないおじさん」世代に潰される。それでいて、その世代の方が数倍も給料が良い。理不尽ですよね。可能性のある若い社員はやがてやる気を失って、大人しくしておいた方が良いと考えるようになります。

 こういった閉塞感の影響は小さくありません。ノーベル賞候補の藤嶋昭・東大特別栄誉教授が中国の大学に移籍したように、評価がされにくい国から離れる動きもあります。ですから、私はスポーツのカテゴリーからでも、“適切な競争原理”を取り戻したいと思っています。

海外の中高生が体験する
“クビ”という前向きな制度

 競争原理ということでいえば、私がヨーロッパで見てきたサッカークラブの制度は、日本のそれと異なります。たとえば中高生世代のクラブでは、毎年2〜3人の選手がクビになります。一見、かわいそうな制度に見えますが、実は前向きなものでもあるのです。「あなたは1年間、このクラブで頑張ってくれた。ただ、試合に出られるレベルには到達できなかった。このまま試合出場は難しいから、所属チームのレベルを落として、試合に出場しなさい」という、考えがあるのです。そこで活躍できれば、またチームに戻ってくるチャンスがあるのです。