前述のとおり東京市内の線路は道路と立体交差させなくてはならない。そのため私鉄は莫大な資金を要する独力での都心乗り入れはせず、山手線に都心直通を依存する形でその外側に路線を延ばしていった。その過程で多くの踏切が設置されたのである。

 現在では「都心」に含まれる品川、渋谷や、高級住宅地を擁する世田谷区、大田区、杉並区も当時は市外であり、当時の交通量を踏まえれば莫大な費用を投じて立体交差化しなくても踏切で事足りた。

 しかし郊外の人口はさらに増え続け、市街は発展し、交通量は激増。踏切の問題が顕在化する。東京市は1932年に周辺地域を組み入れ、現在の23区とほぼ同じ広さとなるが、踏切だらけの路線を都市鉄道に組み込めば当然無理が生じてくる。政策決定者は立体交差の必要性を認識し、対策を講じていたにもかかわらず、それを上回るほど短期間に都市圏が拡大してしまったのだ。

 これに対して海外主要都市は都心の地下鉄道・高架鉄道が早くに開業し、市域の拡大とともに郊外へと延伸したため踏切が少ない。東京に地下鉄が開業したのは、郊外の私鉄があらかた開業し終わった1927年のことだった。

 実は既にこの頃から立体交差化の必要性が認識されており、1940年には内務省と鉄道省が重要道路の立体交差を費用折半で進める協定を結んでいる。1952年には道路法が公布され、鉄道と道路は原則として立体交差にしなければならないと法律に明記された。その後、建設省と運輸省の間で連続立体交差事業の費用負担について協定が結ばれ、幾度の改定を経ながら現在の制度につながっていく。

 全国連続立体交差事業促進協議会のウェブサイトによれば、1969年以降に全国で行われた連続立体交差事業の総延長は556.5キロ(これは奇しくも東海道本線東京~新大阪間とほぼ等しい)、除却できた踏切は1657だ。現在事業中の事業の総延長は約105.2キロ、除却できる踏切数は287だから徐々にだがスピードアップしていると言えるだろう。

 それでも終わりは全く見えない。連続立体交差事業とは100年前から積み重ねてきた宿題を解くような地道な取り組みなのである。