2022年4月から、高校の家庭科で金融教育の授業が始まります。わたしたちは、毎日お金に触れているのに「お金とは何か?」について学ぶ場がありませんでした。本記事では、ゴールドマン・サックスで16年金利トレーダーとして勤めたのちに『お金のむこうに人がいる』という本を著し、現在は金融教育家として活動する田内学氏が、あらゆる人に不可欠な「金融リテラシー」を“ひと言”で教えます。(構成:編集部/今野良介)

ゴールドマン・サックスに16年勤めた金融教育家が教える「不可欠な金融リテラシー」『望郷太郎』(山田芳裕・著)第4巻・Kindle版/位置No.173より

「初めてお金が発明された時代」に行く思考実験

「金(かね)」とは本来道具だ………昔の俺は……道具の金に使われてしまっていた………

これは「モーニング」に連載中の漫画『望郷太郎』の主人公のセリフです。

地球を襲った大寒波によって文明が滅び500年経った西暦2525年、イラクのシェルターで長い眠りから覚めた主人公の舞鶴太郎が、絶望の中で祖国「日本」を目指すストーリーです。

文明がほぼ初期化された500年後の世界で、人類は、狩猟生活をする一方、獰猛な動物に怯えながら生きています。

太郎はその旅をする途中、一部の国で「マー」というお金による貨幣経済が成り立っていることを知ります。お金と税の発明によって、支配する階級と支配される階級が生み出されていました。

かつて、商社の支社長として資本主義のど真ん中で生きていた太郎は、当時を思い出しながら冒頭のセリフを口にします。

そして、「使われるのではなく……金を使うようになるんだ」と続けます。

ゴールドマン・サックスに16年勤めた金融教育家が教える「不可欠な金融リテラシー」『望郷太郎』(山田芳裕・著)第4巻・Kindle版/位置No.174より

また別のシーンでは、太郎はこんなことも言っています。

「マーは油断すると瞬く間に価値を上げ、増える。そして気づいたら、人の方がマーの奴隷になっている」

これは、マネー資本主義に囚われている現代の私たちに向けたメッセージのように、わたしには思えます。

お金そのものに価値はない

できることなら、「お金に囚われずに生きていきたい」と思う人は少なくないでしょう。

お金を貯めて増やして早期リタイアを目指すFIRE(Financial Independence, Retire Early[経済的自立と早期リタイア])に憧れ、お金ではない豊かさウェルビーイング(well-being)を増やすことを考え、政府が主導する「新しい資本主義」に注目が集まっていたりします。

そして、ここ10年ほど「お金とは何か」を考えるきっかけとなる、新たな発見も増えました。

仮想通貨(暗号資産)は、これまでのお金の概念を変えつつあります。従来のお金は、国家やその中央銀行によって発行・管理される通貨です。ところが、仮想通貨の多くは不特定多数の利用者によって管理されています。裏付ける資産や権力がなくても、お金に信用を持たせることに成功しています。

また、MMT(現代貨幣理論)と呼ばれる経済理論においては、「インフレにさえならなければ、通貨はいくらでも発行していい」という考え方もあるようです。

仮想通貨やMMTのような考え方に、違和感を覚える人も多いのではないでしょうか。「価値あるものが簡単に作り出せるなんて、あやしい」と。

しかし、あやしいと感じるのは「お金自体に価値がある」と信じているからです。本当に「お金自体に価値がある」のでしょうか?

『望郷太郎』で描かれている文明が初期化された世界では、「お金自体に価値がある」と思っている人はいません。「石や鉄の塊(硬貨のこと)を持ってたって何にも使えねぇよ!」というのが村人たちの声です。

貨幣経済に浸かっていない人たちにとっては、お金自体には価値がないと感じるのは当然のことです。

貨幣は「税を納めるため」に普及した

漫画ではなく現実の話として、今から1300年前の律令時代の日本も、同じ状況でした。

私の著書『お金のむこうに人がいる』の第1話「なぜ、紙幣をコピーしてはいけないのか」では、律令時代にさかのぼって貨幣の価値を見つめ直しています。

律令時代、役人や平城京を建設する労働者には、貨幣が支払われたそうです。貨幣が出回り始めたばかりの時代ですから、初めて貨幣をみる労働者は「何だ、これは?」と思ったことでしょう。彼らが暮らすためには、得体の知れない貨幣よりも衣食住を満たすための物資が必要だったはずですから。

しかし、心配には及びませんでした。市場に貨幣を持っていけば、米や魚、塩や土器など欲しいものと交換してくれるお店がすでにあったからです。

どうして貨幣を欲しがる人がいたか。簡単です。貨幣を税として納める必要があったからです。

律令時代の租庸調という税制度では、米や綿布や絹布、そして貨幣を朝廷に納めていました。朝廷は税として貨幣を徴収しながら、朝廷のために働く人たちには貨幣を配る。これによって、貨幣が普及して、社会の中を循環していたのです。

私たちが現在使っている円貨幣も同じです。

江戸時代までは、銀、銅銭、小判などの貨幣や米など、円単位ではないものが商品の売買や給料の支払いに使われていました。明治時代になり、突如として円貨幣が普及するのです。

この劇的な変化の引き金になったのが、1873年の地租改正令です。

歴史の授業では、米の収穫高に関係なく土地の所有者から税金を集めるようになったことに焦点が当てられますが、地租改正令が「お金の歴史」を語る上で重要なのは、税金の支払いを円貨幣以外では認めなくした点です。これ以降、他の税金もそれが条件になりました。

金でも米俵でもアメリカドルでもなく、円貨幣を支払わないといけない。その価値をたとえ信じていなくても、納税者は円貨幣を手に入れる必要があったのです。

こうして、先ほどの律令時代の話と同じように、税の徴収によって円貨幣はすぐに社会の中を循環し始めます。そして、政府がこの円貨幣を支払うだけで、公務員に働いてもらったり、公共事業のために働いてもらったりすることが可能になります。

ならば「お金の価値」って何?

現代では、「税金を納めるためにお金を手に入れなきゃいけない」なんて思っている人はほとんどいないでしょう。お金の存在が身近になりすぎて、お金自体に価値があると信じているからです。

しかし、紙幣を印刷して大量に配っても、「働かずして生活できる世界」はやってきません。なぜなら、「お金をもらって働く人」がいなければ、その紙幣を使えないからです。

お金の価値は、「誰かに働いてもらうこと」にあります。お金という道具を使って、人々がともに働いて助けあう社会を実現しているのです。

いま、政府で議論されている「新しい資本主義」では、お金で表される経済的価値を増やすことではなく、「人」を中心に経済を見つめ直そうとしています。それが実現できれば、社会は良い方へ向かうだろうとわたしは思います。

同時に、私たち一人ひとりも、お金に囚われないための第一歩として、まずは「お金とは何か」を知ることから始めた方が良いのではないでしょうか。

「お金のむこうに人がいる」と気づくことは、道徳観や倫理観の話ではなく、これから生きていくために必要な「金融リテラシー」です。