SNSが誕生した時期に思春期を迎え、SNSの隆盛とともに青春時代を過ごし、そして就職して大人になった、いわゆる「ゆとり世代」。彼らにとって、ネット上で誰かから常に見られている、常に評価されているということは「常識」である。それ故、この世代にとって、「承認欲求」というのは極めて厄介な大問題であるという。それは日本だけの現象ではない。海外でもやはり、フェイスブックやインスタグラムで飾った自分を表現することに明け暮れ、そのプレッシャーから病んでしまっている若者が増殖しているという。初の著書である『私の居場所が見つからない。』(ダイヤモンド社)で承認欲求との8年に及ぶ闘いを描いた川代紗生さんもその一人だ。「承認欲求」とは果たして何なのか? 現代社会に蠢く新たな病について考察する。

承認欲求のお葬式Photo: Adobe Stock

感情の「お葬式」

「さようなら。今までありがとう」

私は人生の節目節目で、「感情のお葬式」というものをすることがある。なんてことはない。別に実際に参列するわけではない。一種の妄想だ。頭の中で、今までお世話になってきた感情に対してお辞儀をする。ありがとう、とお礼を言う。そして目を開ける。そうすると、なんだか過去の自分から解放されて、新しい自分になれるような気がする。思い込みかもしれないけれど。

頻繁にあるわけではない。ふと思い立ったとき、私はお葬式をする。さようなら、恋。さようなら、親への執着。さようなら、学生としての甘え。本当にその感情が自分の中からいなくなるとは限らないけれど、それでも、ひとつ自分の中で線を引いたような気分になるのだ。

これまでの人生の中で、「あ、今が転機かもしれない」と思う瞬間があって、そのときどきで必要に応じてお葬式をやってきた。いろいろな感情を弔ってきたし、その分、新しい感情が生まれてくることもあった。けれども私の中で、どうしてもさようならを言えない感情があった。

承認欲求。

他人から認められたいと思う気持ち。
周りと自分を比べてしまう気持ち。
社会からの評価に振り回されてしまう。とにかく、「世間の目」が気になって仕方がない、気持ち。

承認欲求に悩んでいる、いなくなっちゃえばいいのに、という声は頻繁に耳にする。とくに同世代で。就活生の頃からだったろうか。SNSが発達し、他人から「評価される」という機会が多い現代の社会で、私たちゆとり世代は日々、他人からの評価・期待と、自分本来の限界値との間でゆれ、劣等感に悩み続けている。

私は大学生の頃からブログを書いているが、「承認欲求」について考えることが、とても多かった。メインテーマは「女子と承認欲求」だった。

男子ももちろん大変だろうが、女子の中ではとくに、承認欲求について悩みを持つ人が多いように思う。女子は、ロールモデルが多く、多すぎるあまりに、「こんな人生が幸せ」というサンプルを得にくいからだ。仕事を頑張ってトップになったら絶対に幸せになれるというわけではない。数多くの男たちから告白されたら幸せになれるというわけでもない。結婚して子どもを産めば終わりというわけでもない。

ナイトプールに行っている子だってバリバリ海外で働いているキャリアウーマンを見ると焦りを感じるし、東京でクリエイティブな活動をしているエディターだって、地方の田舎でパン屋さんをやっている主婦の丁寧な暮らしぶりに嫉妬するのだ。女の人生は、なかなか難しい。

そんなことをあれこれ書いていた。書いていると、気がつくことがあった。私が悩んでいるのと同じようなことで、みんなも悩んでいるということだった。

たとえば、私は周りからこれほど「認められたい」と強く思っているのは私だけかと思っていた。承認欲求がこんなに強い人間は珍しいほうだと。

そう思いながらも、恥をさらすつもりで自分の感情をブログに曝け出したら、思わぬ反響があった。みんな同じだというのだ。私と同じように、承認欲求に、嫉妬に、劣等感に苦しんでいる。なかなか口には出せないけれど。

「ありがとう」と、感謝されることが多くなった。文章を書くことによって。

勇気を出して書いてよかった、と思うと同時にむくむくと、別の感情が湧き上がってくるのがわかった。不思議な恍惚というか、何かに興奮しているような、そんな感じ。けれども、その感情を何と定義するべきなのか、すぐにはわからなかった。

それからというもの、私はどんどん書くことにのめりこんでいった。書けば書くほど、共感してくれる仲間が増えていくのが面白くて仕方なかった。

「どうして、書くことを仕事にしたいと思うの? 」

将来書いて食べていけるようになりたい、と私が言うと、こんな風に聞かれることがあった。何がきっかけだったの? 転機みたいなものはあった? 決定打は? 

「わからないけど、ただ、文章を書くようになって、最初にいろんな人に読んでもらって、『共感した』って言ってもらえたときの、あの感動が忘れられなくて」

私はとっさにそう答えた。事実だった。やりたいことなんて、合理的に決めるものじゃないんだなと思った。ビビッとくる、というのか、「これがやりたい!」という直感に突き動かされて、決まるものなのだな、と。