私は居場所が欲しかっただけなのかもしれない

そうして、大学生の頃とは違い、働くようになった。この数年がむしゃらに働き、苦しいことばかりだったが、最近になってようやく、働くことの面白さみたいなものが、わかりかけているように思う。

ありがたいことに、店長や書く仕事、編集作業やイベントの企画など、幅広い仕事を任せてもらえるようになった。失敗することもまだまだあるが、これからも続けていきたいという、熱中できる仕事に出会えたことで、私の人生は変わりつつある。

結論から言えば、今の私は、承認欲求に頼って生きる必要がなくなってしまった。

きっかけとなったのは、福岡店のリニューアルを担当したことだった。2018年の5月のことだ。

私は子どもの頃からチームで動くということがとても苦手で、一人でいる方が好きなタイプだった。リーダーとして周りをひっぱっていく才能もないし、部活の先輩後輩の上下関係の中で要領よく立ち回るのも苦手だった。

けれども、福岡店のリニューアルをするためには、チームで動かざるをえなかった。目標を達成するためには私一人の力ではどうにもできない。店舗というのはスタッフ一人一人が動き、そして、お客様に感動を与えられるようにみんなで工夫していかなければならない。

どうしたらお客様に「来てよかった」と言ってもらえるのかと、そればかりをずっと考えていた。

そして思いつく限りのことはやった。スタッフからあげられたアイデアはすぐに取り入れ、実行した。うまくいくこともうまくいかないこともあった。けれども失敗と成功を繰り返して、リニューアルは徐々に進んでいった。お客様に「ありがとう」と言っていただけることが増えた。

ふと、顔を上げると、私は「認められたい」という衝動によって動いていることが圧倒的に少なくなっていることに気がついた。

たしかに、「みんなにこう思ってほしい」という感情はあった。けれどもそれは、認められたいという承認欲求とはまた別の感情のような気がした。私がこうなりたいとかじゃなくて、みんなに、楽しんでほしいとか、笑っていてほしいとか、居心地がいいと感じてほしい、とか。

口にするのは照れ臭いけれど、それは、承認欲求ではなくて、愛情なんじゃないかと、私は思う。そう思いたい。

自分ではない誰かのために動く面白さは、周りから認めてもらえたときの興奮とは、また違った震え方をした。優しく穏やかに、じんわりと広がっていくような。

今、冷静になって思う。

あるいは私は、居場所がほしかっただけなのかもしれない。

「認められたい」という感情は、言い換えれば「あなたはここに居ていい」と許してもらいたいという欲求なのだ。自分にはどこにも居場所がない。そんな不安を掻き立てられると、必要とされたいと思う。認めてほしいと思う。「あなたは価値のある人間だよ」と言ってほしいと、願う。

だから、「承認欲求」というネタも、ある種私の居場所づくりのために必要だったのだ。承認欲求について語っているときは、私は「ここに居ていい人間」になれる。そんな風に。

仕事をして、仕事が好きになって、人のために動く面白さみたいなものが、徐々にわかりかけている今、私は自分の居場所を「承認欲求」コンテンツ以外のところに、もう見つけてしまったような気がする。