寺山修司、大島渚…田原総一朗が「本当にすごい」と感嘆した8人の文化人田原氏が「本当にすごい」と思った文化人8人とは? Photo by Teppei Hori

これまで膨大な数の文化人や芸術家に取材をしてきたジャーナリスト・田原総一朗氏。今回、その中でも田原氏が「本当にすごい」と思った8人を挙げてもらった。自伝的小説「火垂るの墓」や童謡「おもちゃのチャチャチャ」の作詞を手がけた作家、大阪を日本経済の中心地にすべく奔走した元官僚、女性ジャーナリストの先駆け的な存在、日本の演劇界を牽引した伝説のタッグといった、多様で錚々たる顔ぶれの名が挙がった。(聞き手/ダイヤモンド社編集委員 長谷川幸光)

前衛的演劇集団「天井桟敷」を主宰
寺山修司

田原総一朗田原総一朗(たはら・そういちろう)
1934年、滋賀県生まれ。1960年に早稲田大学卒業後、岩波映画製作所に入社。1964年、東京12チャンネル(現・テレビ東京)に開局とともに入社。1977年にフリーに。テレビ朝日系「朝まで生テレビ!」等でテレビジャーナリズムの新しい地平を拓く。1998年、戦後の放送ジャーナリスト1人を選ぶ「城戸又一賞」受賞。早稲田大学特命教授を歴任(2017年3月まで)、現在は「大隈塾」塾頭を務める。「朝まで生テレビ!」「激論!クロスファイア」の司会をはじめ、テレビ・ラジオの出演多数。近著に『コミュニケーションは正直が9割』(クロスメディア・パブリッシング)、『新L型経済 コロナ後の日本を立て直す』(冨山和彦氏との共著、KADOKAWA)など。 Photo by Teppei Hori

【寺山修司(てらやま・しゅうじ)】
1935年、青森県出身。詩人、歌人、劇作家、映画監督。前衛的な演劇集団「天井桟敷」を結成。多才でさまざまな分野で活躍し、膨大な量の文芸作品を残した。1983年没。

 寺山さんは、演劇集団「天井桟敷」を立ち上げ、自分で脚本も書き、カルメン・マキさんなどの才能あふれる俳優を多く輩出した。寺山さんが生み出すストーリーは見事で、彼の作品には何度も感銘を受けている。

 1969年に、カルメン・マキさんのドキュメンタリー『わたしたちは…カルメン・マキの体験学入門』を監督したが、その中で、カルメン・マキさんが歌を歌いたいということで、彼女に歌手役をしてもらうことになった。寺山さんが作詞して「時には母のない子のように」という曲ができたのだが、この曲はカルメン・マキさんのデビュー曲としてリリースされ、その年の第20回NHK紅白歌合戦への出場も果たした。

 寺山さんには大変、感謝していることがある。僕がテレビ局を辞めざるを得なくなってフリーのジャーナリストになったとき、僕のために「田原さんを励ます会」を主催してくれた。当時は、彼はすでに日本を代表する文化人。そのような人が、当時40代前半の僕のためにそのような会を設けてくれたのだ。これほどうれしいことはなかった。

世界進出を果たした反骨の映画監督
大島渚

【大島渚(おおしま・なぎさ)】
1932年、岡山県出身。映画監督、脚本家、演出家、著述家。日本とフランスの合作映画『愛のコリーダ』(1976年)や、日本・イギリス・オーストラリア・ニュージーランドの合作映画『戦場のメリークリスマス』(1983年)を監督するなど、世界進出を果たす。2013年没。

「朝まで生テレビ!」が始まったのは1987年4月。この番組の初期レギュラー陣を務めてくれたのが、映画監督の大島渚さんと、作家の野坂昭如さんだ。

 大島さんは、稲盛和夫さんや石原慎太郎さんたちと同じ、昭和7年生まれ。大島さんは僕より2つ年上だが、敗戦のときに小学生だったか、旧制中学だったかは、我々にとって大きな違いになっている。

 敗戦直前、京都で旧制中学生だった大島さんは、おそらく8月には本土決戦になるだろうからと、先生から切腹の仕方を教わったという。当時、小学5年生だった僕は習っていないが、それよりも上の世代は、先生から切腹の仕方まで教わることもあったのかと驚いた。

 敗戦後、彼は徹底的に反国家、反マスコミとなる。国の言うことも信用できない、マスコミの言うことも信用できない。僕らの世代よりもその念は強烈で、京都大学入学後は、学生運動でリーダー的な役割をした。その後、松竹に入社して映画監督となり、数々の問題作を世に出した。そこでも反国家、反マスコミの姿勢は強烈に表れていて、彼の映画内に登場する国旗は、日の丸の部分が赤でなくて真っ黒なのだ。すさまじい信念だ。

 彼は、本当は京大に残ってそのまま教授になりたかったらしい。でも京大で学生運動を主導した立場上、それは難しいと思ったのだという。論客として、朝生では大いに活躍してくれた。番組では、「天皇論」や「原発論」など、当時、タブーとされていたテーマを次から次へと取り上げたが、多くは大島さんが提案したものだ。激論中、司会の私がいささかひるみ、はぐらかすような姿勢を見せると、「バカヤロー!」「逃げるな!」と怒鳴る。「怖いが心強い兄貴」という存在だった。

 そういえば、松尾貴史さんが、朝生のパロディー(※1989年制作「朝までナメてれば」)をつくったことがあった。僕や大島さんといった出演者たちにふんして、一人で討論を行っていくというものだ。大島さんはそのビデオをおもしろがって、わざわざ送ってくれたことがあったよ(笑)。