田原総一朗流通の革命家、経営の神様、イノベーター…、田原総一朗をもっとも感嘆させたのは? そして彼らに共通する資質とは? Photo by Teppei Hori

これまで膨大な人数の経営者に取材をしてきたジャーナリスト・田原総一朗氏。今回、その中でも田原氏が「本当にすごい」と思った5人を挙げてもらった。土光敏夫、稲盛和夫…。田原氏が選ぶ1位は誰か? そしてその理由は? 共通する資質とは? なお、記事の構成上、あえて順位をつけてもらったが、実際は全員を同じくらいリスペクトしていると語っていたことを付記しておく。(聞き手/ダイヤモンド社編集委員 長谷川幸光)

5位は土光敏夫
東芝の経営再建に成功、その後は日本経済のために尽くす

【土光敏夫(どこう・としお)】
1896年、岡山県生まれ。1950年、石川島重工業(石川島播磨重工業)社長就任。1965年、東京芝浦電気(東芝)社長就任、経営再建に成功。1974年、経団連第4代会長に就任。1988年没。

 1979年、土光敏夫さんが82歳の時に取材した。1979年というと、ちょうどエズラ・ヴォーゲルが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(原題:Japan as Number One: Lessons for America)を出版した頃で、自由主義陣営の一員として日本が政治的な責任を求められ始めた時代だ。

 彼は、先進国をまねしながらここまで成長した日本を評価しつつ、これからは対米従属ではなく、世界に目を向けなければならない、米国、中国、ソ連、いずれの国とも良好な関係を築くべきだと言った。

 僕が、高度経済成長期が終わったこれからの時代、日本人の新しい価値観をどこに求めるべきか尋ねると、「それは時代とともに変わるのだから、私のような頑固頭の老人に聞いたってダメだよ」「若い君らの世代の仕事だよ」と答えた。

 ところがその2年後、土光さんは鈴木善幸内閣の第二次臨時行政調査会長に就任。鈴木善幸内閣、そして中曽根康弘内閣に「増税なき財政再建」を提言し、それを実行した。国鉄(日本国有鉄道)、電電公社(日本電信電話公社、NTTの前身)、専売公社(日本専売公社、JTの前身)の民営化の成功は、土光さんがいなければ成し遂げられなかっただろう。

稲盛和夫、土光敏夫…田原総一朗が「本当にすごい」と感嘆した5人の経営者【深掘りしたい人はこちらも読んでみよう!】
中曽根・土光の行革路線に全面的に賛成した、電電公社の最後の総裁であり、NTTの初代社長でもある真藤恒氏への、週刊ダイヤモンド(1987年7月4日号)のインタビュー

 土光さんは、経営者として、経団連会長として、そして最後は国のために働き尽くした。「頑固頭の老人に聞いたってダメだよ」と語りつつ、日本経済の根幹を変える大きな仕事をやり遂げたのだ。

 そういえば、遺伝子に関する本と、人工知能に関する本、僕の2つの著書を土光さんが読んでくれたという。当時、経営者でそのような分野の本を読む人はあまり聞いたことがなかったので、理由を聞くと、このように答えた。

「経営者というのは、下手をすると知っている世界でのみ経営をしてしまう。でも新しい世界や知らない世界を知り、経営に取り入れることがとても大事なんです」。

4位は稲盛和夫
京セラやKDDIを創業し、日本航空を再建

【稲盛和夫(いなもり・かずお)】
1932年、鹿児島県生まれ。1959年、京都セラミック(京セラ)設立。1984年、電気通信事業に参入し、第二電電企画(KDDI)設立。2010年、日本航空会長に無報酬で就任。会社更生法の適用を受けた同社を再建し、3年で再上場させた。

 松下幸之助が「経営の神様」なら、稲盛和夫はさしずめ「経営の仏様」だろう。

 稲盛さんに初めて会ったのは僕が30代のときで、ほぼ同世代なので彼も30代だったかもしれない。稲盛さんは、それまで日本のマーケットにはなかったオリジナリティのある製品を生み出した。しかし、彼がすごいのはそれだけではない。

 彼は京都の会社でファインセラミックスの開発に取り組み、「フォルステライト」という新しいファインセラミックスの合成に、日本で初めて成功した。しかし技術開発をめぐって上司と衝突し、仲間たちと独立して京都セラミックを設立した。

 新しい会社で自信のある製品はできたものの、まったく売れなかった。彼はその時のことを「田原さん、日本というのは人脈の国なんですよ。人脈がないと誰も買ってくれない。どこの馬の骨ともわからないやつなんて会ってもくれなかった」と語っていた。つまり、メーカーとの癒着がない人はまったく相手にされなかった。

 しかし、彼はあきらめない。日本で相手にされないのであれば、アメリカへ進出しようと考えた。「アメリカはビジネスの国だ。アメリカの企業であれば、製品のテストくらいはしてくれるのではないか」と、こう考えたのである。

 稲盛さんはアメリカに渡り、企業へひたすら売り込んだが、やはり売れなかった。それでもあきらめずに再びアメリカへ渡って挑戦する。すると、製品を評価した企業が購入してくれた。京都セラミックの製品が組み込まれたコンピューターが輸出され、日本にも入ってくるようになった。アメリカ・コンプレックスが強い日本人は、アメリカのコンピューターに京都セラミックの製品が使われていることに注目し始めた。

 しかしそれでも人脈の国では、「顔」がつながらないと買ってもらえない。その時、1社だけ買いに来た会社があった。松下電器である。