1962年5月3日午後9時36分頃、常磐線三河島駅付近で貨物線から本線に合流する下り貨物列車が、信号を見落として赤信号を通り過ぎ、車止めに乗り上げ脱線した。

 常磐線の上り旅客列車は三河島駅から南に大きくカーブし、日暮里、上野方面に向かうが、貨物列車は三河島駅から貨物線に分岐し、田端方面に直進する。三河島駅は貨物列車と旅客列車が分岐・合流する駅であった(現代でも同様である)。

 脱線した貨物列車は本線上に傾いて停止。その直後、現場に差し掛かった上野発松戸行き下り電車が先頭の機関車に接触して脱線し、この列車も車体が大きく傾いて上り線路を支障して停止した。

 この時点では松戸行き下り列車の被害は比較的軽微であったため、乗客の多くは自分の判断で非常用ドアコックを操作して線路に降り、三河島駅方面に避難を始めた。これは桜木町事故の教訓により非常用ドアコックの存在と操作方法が広く周知されていたからだ。

 桜木町事故では、切れた架線が先頭車両と接触して火災が発生。運転士は被害の拡大を防ぐため、パンタグラフを下げて電源を遮断したが、これにより車両のドアが操作不能になり、車内に閉じ込められた乗客が100人以上焼死する大惨事となった。

 直接的な原因は戦時中に設計された車両のため安全設備が多数省かれていたことだが、特に注目されたのが非常時にドアを手動で開くための非常用ドアコックであった。実は事故車両にも設置されていたのだが、乗客はおろか乗務員さえも存在を知らなかったという。これが悲劇につながった。

 話は三河島事故に戻る。事故車両から降り、歩いて駅へ向かう人々。しかし事故発生から6分後、反対側の上り線路に取手発上野行き列車が進入してきて、線路上の旅客を次々と跳ね飛ばしながら、線路を支障していた下り列車に衝突した。

 下り列車の前2両と上り列車の前4両が大破し、一部は高架橋から地上に転落。貨物列車の信号見落としが二重、三重の事故を引き起こし、160人の命が失われる最悪の事態となってしまった。