「させていただく」は
1990年代から増加

 では、このような「させていただく」はいつ頃から使われ始め、なぜ定着したのだろうか。

「『させていただく』の使用が増加し始めたのは1990年代です。明確な理由は分かりませんが、『させていただく』以前に使われていた『~いたす』『お~する』『させてくださる』『てさしあげる』『てあげる』に敬意漸減が起こり、敬意不足にさいなまれた人たちが『させていただく』を使い始めたと考えられます」

 敬意漸減(の法則)とは、敬語に含まれている敬意が使われるうちに、少しずつすり減っていく現象。例として椎名氏は「貴様」という言葉を挙げる。「貴様」は、江戸時代には目上の人に対して使われ、その後、軍歌などでは「貴様」と「俺」は同輩になり、現在はけんかや罵倒の語としてしか使われていない。

「『いたす』も敬意漸減によって、敬意が失われてしまった好例です。『いたす』はもともとへりくだりの言葉でしたが、今では格式張った言い方になり、若い世代になるほど話し手が偉そうと感じるようです。自分を下位に位置付けることによって相手を上位にして、相手への敬意を示していたにもかかわらず、敬意が減ったために現在では上下関係が逆転して自分が偉そうに聞こえてしまう。このような敬意漸減が起きると、人々は敬意が足りないと感じ、敬語を次々と追加していきます。こうして敬意のインフレーションが発生するのです」

 過去に発生した敬意のインフレーションの代表的な時期は、(1)身分制度がなくなり上下関係が解放された明治期、(2)都市化が進んで人々の匿名性が高まった戦後であり、ともに身分社会が水平化された時期に重なるという。

「身分社会の水平化により、相手に失礼がないことと自分がちゃんとした人間であることを示す必要性が発生しました。こうした文脈の中で、新しい表現方法として『させていただく』は見いだされました。また、『させていただく』を使うと、話し手と聞き手は近づきすぎず、遠ざかりすぎない距離感でコミュニケーションが取れます。一方、ほぼ同じ意味で使うこともできる『させてください』だと強制的なニュアンスが強い感じがします。現代社会に生きる我々にとって、『させていただく』がもたらす相手との絶妙な距離感は心地よいのでしょう。また『させていただく』はどんな動詞にも付けられるので、万能なんです」

 謙譲語にできない動詞も、「させていただく」を付ければ、ひとまずは自分の丁寧さが醸し出せる(例:「お帰りする」はNGだが、「帰らせていただく」はOK)。このような使い勝手の良さが「させていただく」人気の秘密でもあるのだ。