信用金庫が大手行や地銀から取引先を獲得しているのは、地域に密着したネットワークと支援の手厚さが評価されているためだ。メガバンクに比べ企業の規模は小さいが、営業エリア内の店舗数は多い傾向がある。狭いエリアで営業活動を継続することにより、地域の企業や住民との関係を深めることができる。

 また親しみやすさも特長の一つだ。職員は頻繁に顧客のもとに足を運び、地域のイベントにも積極的に参加する。

 不況時にこそ信用金庫の強さはきわだつ。銀行は景気が傾き貸出企業の業績が悪化すると、融資の返済を強く求めるようになる。しかし信用金庫は法律により営業エリアが制限されており、無茶な債権回収をすると狭い地域にあっという間に悪評が広まってしまう。そうした事情もあり、信用金庫は取引先が苦境に陥っても経営の立て直しに尽力する傾向がある。

◇小原鐵五郎と城南信用金庫

 小原鐵五郎は業界団体のトップである全国信用金庫協会(全信協)の会長を長期にわたり務めた象徴的存在だ。

 1918年の米騒動で経済格差に危機感をおぼえた小原は、庶民の生活の安定を目指し仲間と大崎信用組合を設立。地域住民を熱心に説得し会員を増やした。その後は同組合の専務理事を務め、1951年の信用金庫法(信金法)制定後に城南信用金庫の理事長に就いた。全信協会長就任後は全国を奔走し、単純な利益追求を良しとしない金融機関のあるべき姿を訴えた。

「小原鐵学」と呼ばれるその思想を色濃く受け継ぐのが城南信用金庫だ。城南信用金庫は総資産や預金量の多さから「メガ信金」とも呼ばれる。

 その成長を支えてきたのは顧客重視の姿勢にある。顧客には融資のことだけでなく補助金制度の情報についても頻繁に情報提供したり、経営者の人格など定性的なデータも加味して融資を判断したりとその本気度がうかがえる。また、他の金融機関が収益源としている高金利ローンや投資信託をいっさい販売せず、預金もリスク資産の割合を抑えて運用している。

 異端にも映る経営方針を支えるのは歴史に対する誇りだ。1945年、15の信用組合が合併して城南信用組合が誕生し、信金法制定後に信用金庫に改組した。合併の旗振り役を務めた小原は第3代理事長に就任。投機的な融資はしない、カードローンは扱わないといった小原鐵学を根付かせた。一時、体制の変更による混乱はあったものの軌道修正し、小原の方針は現在にもしっかりと引き継がれている。