661年、ムアーウィヤが開いたウマイヤ朝

 こうしてムアーウィヤが新しいカリフとなり、ダマスカスに遷都してウマイヤ朝を開きます(661)。

 アリーには3人の子どもがいましたが、次男のフサインは兄とは異なり、反乱を起こしたムアーウィヤに納得していませんでした

 しかし、兄がムアーウィヤを認めたので不満はありましたが黙認せざるをえず、悶々(もんもん)とした日々をすごしていました。

 このフサインのもとにメソポタミアの軍営都市(ミスル)クーファから、使者が訪れます。

 クーファの人々はアリーを支持していました。

 彼らはフサインに、アリーの遺志を継いで本当のイスラーム帝国を東方につくりませんかと呼びかけたのです。

 フサインは喜んで申し出を受け、一族を引き連れてクーファに向かいました。

 総勢は女性や子どもを含めて50名前後だったと伝えられています。

 ところがフサインが旅立ったという情報は、ダマスカスのウマイヤ朝のもとに届きました。

 すでにムアーウィヤは死去しており、子のヤズィードの時代になっていました。

 ヤズィードはフサインがクーファで反乱の旗を掲げたら厄介なことになると考え、彼らを阻止するために正規軍を派遣します。