シーア派(シーア・アリー)はどうして生まれた?

 ムハンマドの死後、成立したばかりのイスラーム共同体(ウンマ)は彼の3人の戦友たちによって、順次継承されました。

 アブー・バクル、ウマル、ウスマーンです。

 イスラーム帝国の基盤を築いた人たちです。

 彼らはカリフと呼ばれるようになります。

 預言者ムハンマドの代理という意味です。

 632年にムハンマドが死亡し、ウスマーンが656年に暗殺されるまで、カリフ位は順当に引き継がれましたが、4代のカリフにアリーが決まったときに問題が起きます。

 それまでの3人がムハンマドの戦友であったのに対して、アリーはムハンマドの娘婿でした。

 それだけではなく、彼はムハンマドの従兄弟(いとこ)でもありました。

 もちろん、そのような関係からカリフに選ばれたのではなく、指導者としての資質を評価されたからです。

 ところが彼のカリフ就任に「待った」をかけた男がいました。

 その男はクライシュ族の名門であるウスマーンが属していた、ウマイヤ家のムアーウィヤです。

 彼はアリーにウスマーン暗殺の真相究明を求め、それができないのであれば、カリフの地位を自分に譲れと述べました。

 そこには次のような事情がありました。

 アリーが4代カリフに選ばれたとき、イスラームの支配する領域は、すでに世界帝国と呼べる広さに達していました。

 西はエジプトを越えてトリポリまで、東は現在のアフガニスタンにまで拡大していたのです。

 ところがムハンマドや彼を受け継いだカリフは、小さな都市であるマディーナのカリフの住居で統治を行っていました。

 その住居は普通の民家であって、宮殿ではありません。

 防壁もなく堀に囲まれるでもなく、警護の兵もそれほどたくさんはいませんでした。

 帝国というよりは集落の行事を決めるように、首脳部が集まり膝をつき合わせながら議論し、政策決定がなされていたのです。

 民主的で素晴らしいのですが、ウンマが帝国規模にまで成長・拡大してくると、統治機構もそれに合わせて整備される必要があります。

 つまり、支配体制の変化が求められる時代を迎えていたのに、対応策が取られていなかったのです。

 ムハンマドの死後、初代カリフのアブー・バクルと性格の強い2代ウマルの時代までは事なきを得ていたのですが、3代ウスマーンは議論のあげく反対派の過激分子たちに暗殺されてしまいました。

 防御設備もない住居です。実行は簡単でした。

 そしてウスマーンの暗殺を受けて、新たにアリーが4代カリフに選ばれたとき、ウマイヤ家のムアーウィヤが強硬な申し入れを行ったのでした。

 ムアーウィヤ(在位661-680)はその当時、イスラーム帝国の領土となっていたシリア総督の地位にありました。

 彼はイスラーム共同体はすでに帝国となっているのだから、きちんとした防御施設のある宮殿を構え、近衛兵のような護衛軍をはじめとして専門の軍隊を整備せよ。そして官僚組織をつくって組織的な行政を行わないと大国の安定は維持できないと考えていたのです。