ムアーウィヤとカエサル

 ムアーウィヤの考え方はローマ帝国を切り拓いたカエサルと似ていました。

 彼は世界の大国になったローマは、元老院のような責任の所在が不明確な共和政体ではもはや統治できないということを訴えた政治家でした。

 ムアーウィヤには、もちろんイスラーム帝国を支配したいという野望もあったと思います。

 しかしその政治感覚はひときわ優れていたと思われます。

 けれどアリーは、ムハンマドと慣れ親しんで生活してきたこともあり、昔からの仲間と協力しながらイスラーム教を広めていくという、伝統的な発想を重視していました。

 ムアーウィヤは反旗を翻(ひるがえ)し、イスラーム帝国に大反乱が生じたのです。

 この反乱には決着がつきませんでした。

 アリーは同じムスリム同士の争いの無益さを考え、ムアーウィヤに和議を申し込み、両者は和解しました。

 アリーはカリフ、ムアーウィヤはシリア総督のままで、一旦事態は収まります。

 しかし一部の過激なグループが、怒り出しました。

 アリーは正統な手続きによって4代カリフとなった人です。

 一方でムアーウィヤは、反乱者で一地方の総督にすぎません。

 「反旗を翻したムアーウィヤは許されざる者である。しかしそのムアーウィヤを、ペナルティを課すこともなく許してしまったアリーも堕落している」

 彼ら過激派は「ハワーリジュ派」(立ち去った者たち)と呼ばれましたが、怒りに任せてアリーとムアーウィヤの双方に暗殺者を送りました。

 その結果、シリアのダマスカスの宮殿にいたムアーウィヤは無事でしたが、アリーはクーファのモスクで暗殺されました。

 暗殺事件の後、アリーの長男であるハサンは、ムアーウィヤに帝国を任せて身を引きました。

 そしてマディーナの自宅で酒色に耽(ふけ)り、ハッシシを吸いながら世捨て人の生涯を送りました。