津田塾大を創立、6歳で渡米し女子教育に人生ささげた「津田梅子」の壮絶人生津田塾大学 Photo:PIXTA

世界経済フォーラム(WEF)が、ジェンダー不平等、男女格差の状況を分析して発表している「ジェンダーギャップ指数」。日本は年々順位を下げ、2021年版では対象153カ国中120位となっている。依然格差のある日本社会、そんな状況で新5000円札の肖像に津田塾大学の創始者である津田梅子が選ばれた。150年前に日本初の女子留学生となり、帰国後、女子教育のパイオニアとなった梅子は、今の日本をどのように見るだろうか。(ジャーナリスト 桑畑正十郎)

日本初の女子留学生5人
わずか6歳で渡米した梅子

 津田梅子は、旧幕臣津田仙(せん)の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)に、元治元年12月3日(1864年12月31日)生まれた。幼名は梅、生母は初子という。維新の「負け組」となった父だったが、洋学者・農学者としての学識から明治4(1871)年に出仕し北海道開拓使の嘱託となった。津田家は麻布へと移り、梅子は父が西洋野菜などを栽培する農園の手伝いもしていたという。

 そんな梅子の運命を大きく変えたのが、留学だ。当時、開拓使長官であった黒田清隆が、駐米公使(弁務使)の森有礼と共に「近代化のため、これからは男子だけでなく、女子にも教育が必要」と派遣を企画。日本初の女子留学生計画であったが、あに図らんや、その募集にはまったく応募がなかった。

 渡航費から学費、生活費、さらには小遣いまで官費から支給される厚遇だったのにもかかわらず、なぜ不人気だったのか。