ラテン語こそ世界最高の教養である――。東アジアで初めてロタ・ロマーナ(バチカン裁判所)の弁護士になったハン・ドンイル氏による「ラテン語の授業」が注目を集めている。同氏による世界的ベストセラー『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』(ハン・ドンイル著、本村凌二監訳、岡崎暢子訳)は、ラテン語という古い言葉を通して、歴史、哲学、宗教、文化、芸術、経済のルーツを解き明かしている。韓国では100刷を超えるロングセラーとなっており、「世界を見る視野が広くなった」「思考がより深くなった」と絶賛の声が集まっている。本稿では、本書より内容の一部を特別に公開する。

「勉強家なのに底が浅い人」と「本当の教養人」の決定的な違いとは?Photo: Adobe Stock

本当に頭のいい人がやっていること

 私は幼いころから、家でも学校でも「勉強しなさい。それはほかの誰でもない自分のためだから」と言われてきました。完全に腑に落ちないまま、そのたびに言い返せずにいた答えを、今なら自信を持って言うことができます。

 今は、勉強したことをほかの人たちに分け与える時代です。

 今の若者たちが不幸な点は、勉強をたくさん重ねてきたはずの先人たちの哲学が貧困なことです。自らが勉強して得た知識を分かち合うことはおろか、社会のために生かし切れていない人があまりにも多い。

 せっかく学んだ知識を、私腹を肥やすことのみに使っている人も珍しくありません。彼らは自分とその家族以外なら、誰が搾取されようが貧しかろうがそんな社会構造にも無関心です。

 せっかく膨大な時間と情熱を注いで勉強した優秀な頭脳があっても、温かい心がなければ学んだ知識は武器ではなく凶器にさえなりかねません。もちろん、「良い暮らしをしたい」という夢は悪いものではありません。

 しかし、勉強する人の志は、もう少し大きく、高い次元のものであってほしいと思います。

 自分のことだけを可愛がるよりも、もっと多くの人、もっと広い世界の幸せのために自分の能力を使いたいという、もうワンランク上の価値を追求してください。

「勉強して皆に分け与える」。その崇高な価値のために努力する人こそが、真の知性人だと思いませんか?

 勉強を積めば知識人にはなれるかもしれませんが、その知識を人々のために使えなければ知性人だとは言いがたいものです。

 私は今でも、勉強を続ける上で本質的な目的を忘れないためにも「私はなぜ勉強するのか? 何のために、誰のために学ぶのか?」といつも自問しています。みなさんはいかがでしょうか?

(本原稿は、ハン・ドンイル著『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』を編集・抜粋したものです)