大石神社の46義士の像大石内蔵助は、赤穂城の明け渡しから吉良邸討ち入りまでの1年9カ月の間、どのように藩士たちをまとめ上げ本懐を遂げたのだろうか? Photo:PIXTA

12月になるとドラマでも扱われることの多い「忠臣蔵」。赤穂藩士46人による仇討ち、その中心にいたのが大石内蔵助だが、赤穂城の明け渡しから吉良邸討ち入りまでの1年9カ月の間、どのように藩士たちをまとめ上げ本懐を遂げたのだろうか? そこで今回は、『ウラから知ると面白い 「影の組織」のすごい日本史』(青春出版社)から、内蔵助だからこそなしえた統率力――人心掌握術の秘密を様々な事例とともに紹介する。

いのいちばんに藩の財務状況を調べる

 21の若さで赤穂藩筆頭家老の座に就いた大石内蔵助は、「昼行燈(ひるあんどん)」と陰口をたたかれるくらい、普段は誰の目にも“うすぼんやり”としてどこかやる気のない態度に見えたという。

 もしもこの「赤穂事件」に遭遇しなければ歴史に名を残すこともなく平凡な人生を全うしたはずである。そんな昼行燈の汚名を返上する一大事が出来(しゅったい)したのは、内蔵助が43歳のときだった。

 江戸表からの早駕籠で刃傷事件を知った内蔵助は、即座に周囲の人々を驚かせる行動に出る。第一報では主君が刃傷事件を起こしたという報告だけで、その後主君や上野介がどうなったかなど詳しいことがさっぱり判明していないにもかかわらず、在藩二百数十人に総登城を命じる一方、藩の財務状況を調べさせたのである。