「人種・民族に関する問題は根深い…」。コロナ禍で起こった人種差別反対デモを見てそう感じた人が多かっただろう。差別や戦争、政治、経済など、実は世界で起こっている問題の“根っこ”には民族問題があることが多い。芸術や文化にも“民族”を扱ったものは非常に多く、もはやビジネスパーソンの必須教養と言ってもいいだろう。本連載では、世界96カ国で学んだ元外交官・山中俊之氏による著書、『ビジネスエリートの必須教養「世界の民族」超入門』(ダイヤモンド社)の内容から、多様性・SDGs時代の世界の常識をお伝えしていく。

「世界の民族」超入門Photo: Adobe Stock

日本人は「アフリカ」を全然知らない

 疫病というのは繰り返し人類を攻撃するおなじみの敵です。

 コロナ禍ほど規模は大きくありませんが、致死率は格段に高いエボラ出血熱が広がっていた2014年、私はビジネスでナミビアとボツワナに行く予定がありました。

「出張は取りやめにして! エボラが大流行しているのにアフリカに行くなんて」

 家族に大反対され、「ああ、やっぱり日本人にとってアフリカは遠くわからない存在だ」と再認識しました。

 なぜなら、エボラ出血熱が大流行していたのは西アフリカで、アフリカ南部に位置するナミビアやボツワナははるかに遠い。

 アフリカが危ないというのは、距離的に見れば、「バングラデシュで疫病が流行していて危険だから、韓国への出張は取りやめたほうがいい」といっているのに近いのです。

 さらにアフリカは幸か不幸か交通網が十分に発達しておらず、ハブ空港を経由しないと隣の国に行けなかったりします。

 実際にエボラ出血熱は、ナミビアやボツワナで広がることもありませんでした。

「アフリカ」と一括りにしてはいけない

 似たような経験は他にもあって、以前あるパーティーで、ナイジェリア人を日本のビジネスパーソンに紹介した時のこと。

 日本人は世間話のつもりで「この間、マダガスカルに行ったんですよ」と笑いかけたのですが、ナイジェリア人はきょとんとしていました。

 同じアフリカだから話のきっかけになると思っても、相手にとっては「いきなり、そんな遠い場所の話をされても……」という困惑にしかならなかったということです。

 ちなみに、マダガスカル人に話を聞くと、「マダガスカルには、アフリカだけでなく、インドやアラブ、ヨーロッパ的な要素も交じっておりアフリカの国といわれるのは微妙。アフリカ連合(AU)には加盟しているけど」とのことでした。

 アフリカは大きくて多様だということを大前提にしましょう。北アフリカを含めると55カ国。

 北と南を直線でつなぐと、日本からヨーロッパまでの距離があるのですから、安易に「アフリカ」と一括りに考えると理解できません。

「アフリカ人」というのは、「アジア人」「ヨーロッパ人」と同じく大きな括りで民族といえるものではないのです。

 さらに、もともと「国」というよりもいくつもの民族がいた大陸ですから、国境は近代になってから、欧米列強が自国の利益のために勝手に作ったもの。

 それが今にいたるまで大きな悲劇を生んでいます。特に西アフリカの奴隷制の遺恨は、いまだに残っていると考えるべきでしょう。

アフリカの民族を理解するための3つの視点

 アフリカの民族はあまりにも細かく多数であるため、地理的な3つの視点で整理することにしましょう。

 視点その1は、北アフリカとサブサハラで線を引いてみること。

 エジプト、モロッコ、チュニジアなどがある北アフリカは、アラブ世界。サブサハラ(サハラ以南のアフリカ)とは大きく異なります。

 ただし、その区別を重視しすぎるあまり「北アフリカはアフリカではない」と決めつけるのも問題です。

 北アフリカには「アフリカの一員である」という意識もあり、たとえば、リビアのカダフィ大佐は独裁政権で悪名高い人物ですが、アフリカの実力者として、サブサハラの国々に多額の援助をしてきました。

 日本に留学した経験があるタンザニア人の友人も、「カダフィは評価すべきだ」という意見でした。

 これは彼の個人的な意見かもしれませんが、日本に留学しているくらいですからカダフィのような過激思想の持ち主ではなく、むしろひらけた考え方をする若者です。

 この他にも複数のアフリカからの留学生が、「カダフィはアフリカのために行動していた」と述べていて、内側からと外側からの人物の捉え方の違いを実感しました。

 また、「アフリカ版オリンピック」は北アフリカを含めて開催されており、これもアフリカの一体性の象徴でしょう。

 私がカイロに渡った1991年に、カイロでアフリカ版オリンピックが開催され、「ああここはアフリカなんだ」と感じたことを思い出します。

奴隷貿易の傷跡

 視点その2は西と東で線を引いてみる。私はこれが非常に重要だと考えています。

 アフリカ西海岸はかつて「奴隷海岸」と呼ばれた場所。今は差別的な名称であるとして使用されていませんが、西海岸のガーナやセネガルの港からは1500万人ともいわれる人々が強制連行されました。つまり、奴隷として輸出されたのです。

 奴隷貿易の影響はいまだ残っているという研究が多くあります。労働力である人々が大量に連れ去られたという社会の損失も大きいと思いますが、私が特に指摘したい影響はもっと心理的なものです。

 資料によれば、奴隷はアメリカやヨーロッパの人々に誘拐されたり脅されたりして、船に乗せられたわけではありません。

この人たちを奴隷として輸出しよう」と欧米と取引をしたのは、地元アフリカの黒人だったのです。

 支配者層だった彼ら(おそらくほぼ男性だったと思われます)は、ヨーロッパの白人ほどではないにせよ、奴隷貿易で大儲けをしました。

 奴隷貿易そのものが世界史上最悪の非人道的な行いです。

 自国のための労働力として人間を売買し、プランテーションを作って莫大な富を得た欧米人に比肩する帰責性が彼らにはあると思います。

 同じ社会に生きているにもかかわらず、外国人と結託して貧しい人々を売り払った支配者層が存在したという事実は、人の心に強い不信感を植えつけたのではないでしょうか。

支配者層は自分たちを搾取し、略奪する存在だ」と。同胞に対する不信感、権力者への信頼の欠如がアフリカ西海岸には強い。これが私の仮説です。

「ナイジェリアのような産油国が意外に発展していないのは、社会の根底に不信感が強いからだ」とする専門家もいて、あくまで仮説ながら、あながち外れていないのではないかと思っています。

「じゃあ東海岸はどうか」といえば、ケニア、タンザニア、モザンビークなどは奴隷船がゼロではありませんがなきに等しく、影響はほぼ受けていません。

 同じアフリカでも、奴隷制についての歴史認識が西と東では大きく違っているでしょう。アフリカ通の人を除き、日本人を含めた世界の多くの人たちが、あまり意識していないポイントではないかと思います。

 東海岸はむしろインドの影響が大きく、「印僑」というインド商人との交流がありました。

 また、オマーンの商人が沿岸部に多く住むなど、貿易を通じたアラブの影響も強い。そのため、スワヒリ語とアラビア語は文法は違うものの、共通の単語が多くあります。

 余談ながら私が外務省で最初にアラビア語を習った日本人の先生は、もともとスワヒリ語専門でした。

 ところが「スワヒリ語を学ぶためにはアラビア語が必須だ」ということでアラビア語を学んでいるうちにそちらが専門になったそうで、非常に関係が深い言葉なのだと印象に残っています。

 海の向こうからやってくるのは奴隷船ではなく、交易のためのインド人やアラブ人だった東海岸。

 歴史的に外に開かれてきたからか、私見ではケニアやタンザニアの人は社交的で、つきあっていても明るい印象があります。

どの国の植民地だったのか

 視点その3は、どこの植民地だったかということ。

 フランスは北アフリカの3カ国とセネガル、マリ、コートジボワール、カメルーンなど西アフリカの多くのエリア。イギリスはナイジェリア、ガーナ、南アフリカなど。ポルトガルはアンゴラやモザンビーク。

 その他、ベルギーとイタリアもアフリカを支配し、エチオピアは独立を維持しました。以上の3つの視点に加えて、南アフリカには白人が多いことも押さえておきましょう。