一度目の入院の際に、ある看護師さんが「山崎さんの治療はまず間違いなく髪の毛が抜けるけれども、現実の脱毛は、ドラマにあるようにつるつるにきれいに抜けるものではないのよ」と教えてくれていた。そのため、本格的に脱毛したら坊主頭にしてしまおうと思って自分でカットができるとうたう電動バリカンを家電量販店で調達していた。

 洗髪の流れのまま、電動バリカンを5ミリメートルくらいの超短髪にセットして坊主頭にした。

 鏡の中に見慣れない顔が現れたが、気分はすっきりした。翌日から、「ニット帽のおじさん」(まだ「おじいさん」と呼ばないでいてくれたら嬉しい)の生活が始まった。

 数日後に二度目の入院となり、間に2週間の休みを挟んで、手術のための入院をして14泊15日で退院し、昨年の末あたりまではニット帽をかぶって生活した。

「坊主頭に不都合はない!」
そんな心境が芽生えてきた理由

 ニット帽は気に入っていたのだが、かぶる手間が面倒には違いない。年が明けたくらいから、帽子をかぶらずに外出する日が出てきた。帽子は常に持っていて、いつでもかぶることができるように準備していた。

 残った髪の毛は、1カ月に1センチメートル強伸びる感じなのだが、「密度」がなかなか復活しなかった。バリカンで長さを抑えながら、密度の回復を待つことにした。この間、主にニット帽をかぶるのだが、徐々に帽子をかぶらない時間が増えてきた。

 一つには、当たり前のことなのだが、同じくらい毛のない人は世の中に普通にいることに気づいた。

 また、この要素が最も大きいように思うが、毎日自分を見ているうちに、自分の姿を「見慣れて」きた。そして、「坊主頭でも、不都合はないではないか」という心境が芽生えてきた。

 できる限り客観的に考えてみると、筆者のような人物が、白髪混じりの七三分けのような普通のヘアスタイルであろうと、坊主頭であろうと、他人には「どうでもいいこと」だろう。坊主頭では恥ずかしいのではないか、という思いは自意識過剰の産物にすぎない。また、坊主頭にあって毛の「密度」が気になるのは本人だけだろう。これも、他人にとってはどうでもいいことだ。

 脱毛から4カ月が経過した2月になって、帽子をかぶらずに外出する日が増えた。荷物の中に帽子を加えることを忘れる日が多くなった。