癌になる前の六十数年を思い
「反省」したこと

 坊主頭で不都合はない。そういうことなのであれば、癌になる前の六十数年はどういうことだったのか。いわゆる床屋、もう少し手が込んでいて高級なイメージのヘアサロンと称するような場所に、1、2カ月に一度くらいは行って、髪をカットしてもらっていたのは無駄だったのではないかという反省が生まれた。

 今風にスタイリストと呼んでもいいが、筆者の髪をカットする人たちは、工夫を凝らそうとしても結局似たようなヘアスタイルに帰着していた。それに、筆者の頭の形に合わないヘアスタイルを理想とする画一的な価値観にとらわれていた。

 短髪になってみてよく分かったが、もともと生えている毛の流れは強力だ。これに反するヘアスタイルを作り、かつ維持することは極めて難しい。かつての筆者の銀行員のようなヘアスタイルは、髪の毛の長さがあの程度だと、あれ以外のものには収まりようがなかったのだ。

 また、多くのスタイリストは、頭頂部分の毛を盛り上げたり立てたりする一方で、頭の横の毛を抑える形が好ましいという画一的な価値観を持っていたように思う。筆者は、自分の頭の形や、毛の生え方について、いつもスタイリストに対して少々申し訳ない気分で髪をカットされていた。

「頭の形が悪い」。確かに、彼らの価値観からすると筆者の頭は形が悪い(横が張っていて、頭頂部がやや平らで、後ろはいわゆる「絶壁」だ)。

 しかし、坊主頭にした場合に、致命的に見苦しいということはないように思う。想像していたよりもマシだった。そして、このヘアスタイルなら、市販の電動バリカンがあれば、自分で、しかも短時間で作ることができる。

理美容業界のマーケティングによる
ヘアスタイルの呪縛と不経済

 さて、どう考えたらいいのか。

 仮に、ヘアサロンの施術代金を1万円としてみよう。施術に1時間半かかり、移動に片道30分、往復で1時間かかるとしよう。ヘアサロンを1回利用することのコストは、料金が1万円と、時間が2時間半だ。時間については、「何日の何時」と予定を固定することの不自由の影響も考えなければならないから、意思決定のために、この想定は少し甘いのだが、直接的なコストを考えるとしよう。

 問題は時間の値段だが、例えば年収2000万円の人がいるとすると、年間に250日働いて、1日に8時間働くとすると、時給がちょうど1万円になる。読者は、適当にご自分の時間の値段を見積もられたい。髪の毛をカットすることのトータルコストは、決して安くない。年間の回数にもよるが、下手ながん保険の保険料よりも高いかもしれない。

 一方、自分でカットできる電動バリカンの値段は数千円だし、1回のカットに要する時間は片付けも含めてせいぜい30分だろう。しかも、自分にとって都合のいい時間にできる。

 これだけのコスト差がありながら、他人から見ると「どうでもいい」自分のヘアスタイルに気をもんでいたのはなぜなのだろうか。