「死」とは何か。死はかならず、生きている途中にやって来る。それなのに、死について考えることは「やり残した夏休みの宿題」みたいになっている。死が、自分のなかではっきりかたちになっていない。私たちの多くは、そんなふうにして生きている。しかし、世界の大宗教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教はもちろん、仏教、神道、儒教、ヒンドゥー教など、それぞれの宗教は「人間は死んだらどうなるか」についてしっかりした考え方をもっている。
現代の知の達人であり、宗教社会学の第一人者である橋爪大三郎氏(大学院大学至善館教授、東京工業大学名誉教授)が、各宗教の「死」についての考え方を、鮮やかに説明する『死の講義』は、「この本に、はまってしまった。私たちは『死』を避けることができない。この本を読んで『死後の世界』を学んでおけば、いざというときに相当落ち着けるだろう」(西成活裕氏・東京大学教授)と評されている。今回は、著者による特別講義をお届けする。
日本には文明がない――日本教のニッポン
さて、日本は文明なのか。中国文明の端っこにひっかかっていますが、中国文明の一部ではない。日本は、文明ではないと思います。
日本には、みんなが読んで考え方や行動の規準にする、正典(カノン)がありません。文明に不可欠の“大事な本”がない。文明ではありえない。
それはいろいろに証明できます。文字がろくに読めず、ケンカが強いだけだった武士なるものが、武家政権をつくっていた。こんな現象は、本来の文明ならばありえません。文明でない証拠だと思います。
日本に古い本はあるか。文字がなかったので、あんまり古い本はありません。いちばん古いのは『古事記』と『日本書紀』。中身は神話で、スサノオはいけないことばかりし、人びとに考え方や行動の規準を教える本ではない。
じゃあ、仏典は代わりにならないか。仏典には正しいことが書いてある。でも仏典は、出家した僧のためのもの。実社会を生きる人びとのためのものでない。
儒教の経典はどうか。儒教は中国社会を生きる中国人のためのもので、日本人には合わない。正典を借り物ですませるわけには行きませんでした。
じゃあどうする。日本人は、正典なんかなくてもいいと思って、つくらなかった。神道には正典がありません。神道の奥義書みたいなものがありますが、一般の人びとが読む本ではありません。それではカノンの意味がない。これが日本社会の特徴です。
日本に正典がないとは、日本は文明でないということです。日本の人びとは、文明と違った独自の方法を採っている。しかも,自分たちが独自の方法を採っているという自覚がない。文明が理解できない。グローバル世界の常識がないということです。これは大変困った状態かもしれない。
日本では、そのときどきで、人びとが最適と思う社会をつくります。一貫した原理がなく、時代に連れて社会のあり方が変わります。たとえば、平安時代と鎌倉時代では、社会のリーダーも政府のあり方も、貴族から武士、律令制から武家政権と、まるで違ってしまいます。
室町幕府、戦国時代、江戸幕府、明治政府も同様に、社会のあり方が変わっています。日本人はそれを全然気にしません。社会のあり方が変わっても、日本人の同一性は損なわれないぞ、ときっと確信しているんです。これはもう、独自の文化ですね。
日本人は、日本教に従っていると言ってもいいかもしれない。
日本企業の源泉は法然
いまの日本のあり方が形成されたのは、室町時代です。それには、鎌倉新仏教の影響が大きい。
それまでの仏教は、貴族のためのものでした。荘園で働く農民は報われず、労働の成果は貴族の贅沢や豪壮な仏教建築に化けてしまった。鎌倉新仏教は、それを一新しました。仏教を、農民のためのものにつくり変えた。
鎌倉新仏教のキーパーソンは、法然、道元、日蓮の三人です。とりわけ法然が、天才的な働きをしたと思う。
法然は『選択本願念仏集』を書きました。法然は、すべての経典を読み尽くし、末法の時代、ふつうの修行では救われない、人びとは「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて、阿弥陀仏の極楽に往生するしかない、と「証明」したのです。そして大寺院をとび出し、農民のあいだに入って念仏を広めた。
念仏なら、働きながらでも、字が読めなくても、誰でも唱えられます。農民の圧倒的な支持をえて、念仏宗の開祖となった。
一神教とそっくりと言ってもいいほどの、仏教原理主義の運動です。
念仏宗は、農村を作り変えました。農民は団結して、農村の主役となります。誰もが来世で極楽に往生するのだと信じれば、現世で互いに仏と仏のようにふるまうことになります。所有権が尊重され、働けば報われる。念仏宗が典型的ですが、鎌倉新仏教は、農村共同体の連帯をつくりだした。
それが江戸時代のムラとなり、明治以降の日本の企業組織の原型となったのです。
日本人のつくる社会の社会秩序の源泉は、人びとが互いを信頼することです。正典(カノン)がなくても、人びとが互いを信頼すれば、道徳や社会規範をうみだすことができます。ムラも会社も学校も官庁も、国レヴェルの法律と違ったローカル・ルールをもっているのが、日本社会の特徴です。
日本の企業文化には、そうした歴史的・宗教的な背景があることをわかっておいたほうがよいでしょう。
日本の近代化と朱子学、古学、国学
もうひとつ、現代日本の起点となったのが明治維新です。
明治維新は、ナショナリズムの運動。天皇が忠誠の対象であるべきだと考える尊皇思想が、日本の人びとを国民(ネイション)につくり変えた。武士が統治の主体である幕藩制をやめ、身分をなくして、近代的な日本国民が登場しました。
この考え方の源泉は、江戸時代にあります。具体的には、朱子学、古学、国学、蘭学でした。それらが組み合わさって、明治政府を樹立することが可能になった。
◯朱子学:とりわけ、山崎闇斎(あんさい)学派
この学派は、儒教の原則に照らすなら天皇が日本の正統な統治者であるとし、江戸幕府は非合法政権だと結論しました。
◯古学:とりわけ、荻生徂徠(おぎゅうそらい)
荻生徂徠は、儒教のテキストは書かれた当時の意味で読むべきだとし、後世の解釈である朱子学を否定しました。
◯国学:とりわけ、本居宣長(もとおりのりなが)
本居宣長は、徂徠の科学的なテキスト読解の方法論を古事記に適用し、儒教と関係なしに、日本のそもそもの統治者は天皇であると結論しました。
これらの考え方が合流して、後期水戸学になります。
水戸学は儒教原理主義から出発して、次第に過激な尊皇思想に変わっていきます。それが当時の人びとに大きな影響を与え、倒幕運動の原動力になりました。
幕藩制を解体し、近代的な政府を自力でつくりあげたのは、日本人が誇りにすべき歴史です。
でも、それを背後で支えた精神のドラマと思想の格闘を、日本人は忘れてしまっています。自分のアイデンティティが何に由来しているのか、知らないのです。
※本原稿は、2022年11月に大学院大学至善館で行なった講演(https://shizenkan.ac.jp/event/religions_oc2023/)をもとに、再編集したものです。
橋爪大三郎(はしづめ・だいさぶろう)
1948年生まれ。社会学者。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。大学院大学至善館教授、東京工業大学名誉教授。著書に『はじめての構造主義』『はじめての言語ゲーム』(ともに講談社現代新書)、社会学者・大澤真幸氏との共著に『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書、新書大賞2012を受賞)、『死の講義』(ダイヤモンド社)などがある。
「人は死んだらどうなるのか」を宗教に学ぶ――著者より
突然ですが、この本は、死んだらどうなるかの話です。
だいたい死は、突然やってくるものなので、お許しください。
ただしご安心ください。「死んだらどうなるかの話」は、死ぬことそのものではありません。むしろそんなことを考えるのは、生きているひとです。かく言う著者の私もまだ生きているし、この本を手にとったあなたも生きている。悠長なことです。いまにも死にそうで、それどころではないひとだってけっこういるのに。
じゃあなぜ、そんな悠長なことを考えるのか。
いよいよ死にそうになったときには、じっくり考える時間がありません。気力も体力もないかもしれない。そうするうち、死んだらどうなるかもはっきりしないまま、死んでしまう。もったいないことです。せっかく死ぬのに。
人間は、自分が死ぬとわかっている。よろしい。では、死んだらどうなるとわかっているのでしょうか。
むかし人びとは、群れをつくったり、村に住んだり、小さな集団で暮らしていました。そこには、死んだらどうなるか、の決まった考え方がありました。死んだら鳥になる。先祖のところに帰る。どこか遠くで、楽しく暮らす。などなど。それは、人びとが自分の考えを持ち寄って、みんなの考えにしたものです。
そのうち、社会はもっと複雑になります。広い場所で農業を営み、人口も増えた。社会階層が分化した。ふつうの人びとのほかに、商人や職人や、軍人や王さまや、官僚や神官がいます。複雑な社会のなかで、人びとはさまざまな人生を歩みます。職業を変わったり、出世したり落ちぶれたり、戦争に駆り出されたり難民としてよその土地に移住したり。人びとの生き方が何通りもあるということは、人びとの考え方も何通りもあるということです。
広い場所には、さまざまな文化をもった人びとが集まります。さまざまな人種、さまざまな民族の人びとが集まります。死んだらどうなるか、の考え方も違います。これが、「宗教の違い」として意識されます。
いくつも宗教がある。それは、死んだらどうなるか、の考え方がいくつもあるということです。いくつも宗教が出てきてどうなったかというと、大部分は廃れてしまいました。けれどもそのうちいくつかは、信じる人びとの人数が増えて生き残りました。それが「大宗教」です。大宗教は、社会を丸ごと呑みこんで、文明につくり変えました。そうした文明は現在も大きな勢力を保っています。
いま、世界には、四つの大きな文明があります。どれも、宗教を土台にしています。
・ ヨーロッパ・キリスト教文明 ……キリスト教を土台にしている
・ イスラム文明 ……イスラム教を土台にしている
・ ヒンドゥー文明 ……ヒンドゥー教を土台にしている
・ 中国・儒教文明 ……儒教を土台にしている
この本では、これらの宗教が、人間は死んだらどうなると考えているのか、詳しく追いかけることにします。それぞれの宗教について調べて、もの知りになることが、目的ではありません。自分で納得して、そうだと思える考え方を、選び取ることが目的です。もしかしたら、どの考え方にも納得できないかもしれません。(最近、そういう人びとが増えています。)そういう場合には、ほかにどういう考え方があるのかも、わかる限りで紹介することにします。
この本のタイトルは、『死の講義──死んだらどうなるか、自分で決めなさい』です。こんな本を読んでいると、変な目で見られるかもしれません。縁起でもない、と。いやいや、決して怪しい本ではないですよ、と説明してあげましょう。
この本を読む理由。
死んだらどうなるかわからないので、怖くて、心配で、読むのではありません。もちろん、怖くて、心配で、困って読むのでもかまいません。でもほんとうは、しっかり生きるために読む、のです。
死んだらどうなるのか、死んでみるまでわからない。それなら、死んだらどうなるのかは、自分が自由に決めてよいのです。宗教の数だけ、人びとの考え方の数だけ、死んだらどうなるのか、の答えがあります。そのどれにも、大事な生き方が詰まっています。人生の知恵がこめられています。それは、これまでを生きた人びとから、いまを生きる人びとへのプレゼントです。
これより大きなプレゼントがあるでしょうか。私の役目は、そのプレゼントを、読者の皆さんに届けることです。
そこで、読者のみなさんに、約束します。
中学生でも読めるように、わかりやすく書きます。
少しむずかしい言葉を使うときは、説明や注をつけます。
頭に入りやすいように、かみ砕いて話を進めます。
人間が死んだらどうなるのか。この本にあるように、ほんとうにいろいろな考え方があります。そしてどれも、よく考えられています。選りどり見どりです。
人間が死んだらどうなるのか、いろんな考え方に触れるのはよいことです。とりあえずどれかに決めてみるのもよい。より深みと奥行きのある生き方を実感できます。
■新刊書籍のご案内
☆☆読売新聞書評面(2023/2/5)掲載で大きな話題!「人生を変える一冊」として読まれています!!☆☆
☆ロングセラー、重版続々!☆
西成活裕氏(東京大学教授)推薦
「この本に、はまってしまった。私たちは『死』を避けることができない。この本を読んで『死後の世界』を学んでおけば、いざというときに相当落ち着けるだろう。」
佐藤優氏推薦
「よく生きるためには死を知ることが必要だ。」
山口周氏推薦
「宗教の本質は死生観に出る。死を考えることで生を考えることができる。」
病理医ヤンデル氏絶賛
「とんでもない本だった。語彙が消失するほどよかった。」
「死」とは何か。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教はもちろん、ヒンドゥー教、仏教、儒教、神道など、それぞれの宗教は、人間は死んだらどうなるか、についてしっかりした考え方をもっている。本書は、現代の知の達人であり、宗教社会学の第一人者である著者が、各宗教の「死」についての考え方を、鮮やかに説明するコロナの時代の必読書。
宗教の、どれかひとつを選んで、死んだらどうなるか、考えてみる。ちょっとやってみる、をお勧めする。それは、運命の出会いかもしれない。とのべておきながら、反対のことを言おう。どの宗教を選んでも、結局は同じことですよ、と。
なぜか。それはどの宗教も、いまの時代を真面目に生き、でも相対主義に苦しむふつうの人びとの、プラスになるに決まっているから。科学と常識だけでは満足できなかった、ぽっかり空いたあの偶然の空白を埋めて、自分なりの確信をもって他者と共に歩むことができるから。
宗教をひとつ、選んでみなければ、宗教のことはわからない。その宗教だけでなく、どの宗教のこともわからない。その意味で、どの宗教を選んだとしても、結局は同じことなのである。
人類の最大の知的財産である宗教をわからないままで、生きていると言えるだろうか。ささやかな本書を手がかりに、宗教の豊かさを味わってくれる人びとがひとりでも多いことを願っている。(本書より)