「死」とは何か。死はかならず、生きている途中にやって来る。それなのに、死について考えることは「やり残した夏休みの宿題」みたいになっている。死が、自分のなかではっきりかたちになっていない。私たちの多くは、そんなふうにして生きている。しかし、世界の大宗教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教はもちろん、仏教、神道、儒教、ヒンドゥー教など、それぞれの宗教は「人間は死んだらどうなるか」についてしっかりした考え方をもっている。
現代の知の達人であり、宗教社会学の第一人者である橋爪大三郎氏(大学院大学至善館教授、東京工業大学名誉教授)が、各宗教の「死」についての考え方を、鮮やかに説明する『死の講義』は、「この本に、はまってしまった。私たちは『死』を避けることができない。この本を読んで『死後の世界』を学んでおけば、いざというときに相当落ち着けるだろう」(西成活裕氏・東京大学教授)と評されている。今回は、著者による特別講義をお届けする。
ヒンドゥー教が大事にしているもの
さてつぎに、ヒンドゥー文明について考えてみます。
まずヒンドゥー教は、一神教とどう違うのか。
学校では、ヒンドゥー教は多神教で、一神教の反対です、と教わります。神の人数が違う。間違いではないが、神の人数は実は、問題の本質ではありません。
ヒンドゥー教は実は、神よりもっと大事なものがあると考えている。それは、真理です。
真理。Truth。ダルマといってもいい。この世界の根底には、永遠不変の真理がある、と考えるのです。
この世界の出来事はすべて、真理(法則)に従っている。それは、因果律です。
原因があれば、結果がある。原因も出来事。結果も出来事。出来事と出来事のあいだに、規則性がある。それは見ればわかる。合理的な考え方です。
原因には、原因の原因がある。結果には結果の結果がある。
この因果の連鎖には、果てがありません。世界は、原因と結果の連鎖によって覆い尽くされている。これがインドの人びとの、もっとも基本になる考え方です。
真理を覚ることに価値がある
神と真理は、どう違うか。
一神教の神には人格があります。神は生きている。人間のように考え、行動する。ものごとを認識し、言葉を話す。人間と交流できる。人間と契約を結ぶこともできます。その契約が、宗教の中身です。
いっぽう、真理はただの法則で、生きていないし、人格も意思もない。言葉を話さないし、人間と交流もできない。契約も結べない。
ヒンドゥー教の考えをとるなら、一神教は成り立ちません。インドでも契約はあるけれど、それは人間が人間と結ぶ世俗社会でのこと。
世界の出来事は、契約など結ばなくたって、はじめから法則に従っている。というのが、ヒンドゥー教です。
ヒンドゥー教では次のように考えます。
[ヒンドゥー教の考え]
・出来事は、原因と結果の法則性に従ってつぎつぎ起こる。この法則性は不変で、人間の意思によってはビクともしない。
・人間は逆に、この法則性に支配されていて、それに従って考えたり、行動したりしているに過ぎない。
・この法則性を理解しないと、欲望にとらわれて苦しんだり悩んだりすることになる。
・この法則性を理解すれば、そうした間違った欲望から解き放たれ、真実に目覚めて、平和に幸せに暮らせる。
・真理(法則性)を覚ることには、価値がある。
ヒンドゥー教では、真理を覚ることが、人間にとっていちばん素晴らしいことです。
インドの現在
真理を覚るにはどうするか。精神集中して、瞑想します。じっと座っているので、働けません。もしもインドの人びと全員がじっと瞑想するなら、誰も働かないので、死に絶えてしまいます。
じゃあどうする。一部の人びとだけが、瞑想してよいことにした。バラモンです。
バラモンは宗教活動をしてよい。残りのカーストの人びとは、バラモンやほかのカーストの人びとの生活を支えるために、それぞれ割り当てられた労働に従事しなければならない。
こうして、バラモン(宗教)/クシャトリヤ(政治・軍事)/ヴァイシャ(ビジネス)/シュードラ(サーヴィス)/ダリット(アウトカースト)、のカースト制ができあがります。
カースト制は、この世界の真理(法則性)を背景にした秩序なので、変更できません。不合理な身分秩序です。
でも、人びとは輪廻する(死んだらまた生まれる)と考えられているので、来世で上のカーストに生まれるかもしれない。輪廻の法則の前では、人びとは平等なのです。
仏教も、真理を覚ることを重視する点は、ヒンドゥー教と同じです。ただ、バラモンでなくても誰でも、修行して覚りをめざすことができるとする。それには出家すればよい。出家修行者の生活は、在家の人びとが支えます。
古代からのカースト制をいまに残すインドは、近代化に苦労していました。でもいま、英語と英米法と教育熱と安定した社会秩序を足場に、グローバル世界に飛躍しつつあります。インドから目が離せません。
※本原稿は、2022年11月に大学院大学至善館で行なった講演(https://shizenkan.ac.jp/event/religions_oc2023/)をもとに、再編集したものです。
橋爪大三郎(はしづめ・だいさぶろう)
1948年生まれ。社会学者。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。大学院大学至善館教授、東京工業大学名誉教授。著書に『はじめての構造主義』『はじめての言語ゲーム』(ともに講談社現代新書)、社会学者・大澤真幸氏との共著に『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書、新書大賞2012を受賞)、『死の講義』(ダイヤモンド社)などがある。
「人は死んだらどうなるのか」を宗教に学ぶ――著者より
突然ですが、この本は、死んだらどうなるかの話です。
だいたい死は、突然やってくるものなので、お許しください。
ただしご安心ください。「死んだらどうなるかの話」は、死ぬことそのものではありません。むしろそんなことを考えるのは、生きているひとです。かく言う著者の私もまだ生きているし、この本を手にとったあなたも生きている。悠長なことです。いまにも死にそうで、それどころではないひとだってけっこういるのに。
じゃあなぜ、そんな悠長なことを考えるのか。
いよいよ死にそうになったときには、じっくり考える時間がありません。気力も体力もないかもしれない。そうするうち、死んだらどうなるかもはっきりしないまま、死んでしまう。もったいないことです。せっかく死ぬのに。
人間は、自分が死ぬとわかっている。よろしい。では、死んだらどうなるとわかっているのでしょうか。
むかし人びとは、群れをつくったり、村に住んだり、小さな集団で暮らしていました。そこには、死んだらどうなるか、の決まった考え方がありました。死んだら鳥になる。先祖のところに帰る。どこか遠くで、楽しく暮らす。などなど。それは、人びとが自分の考えを持ち寄って、みんなの考えにしたものです。
そのうち、社会はもっと複雑になります。広い場所で農業を営み、人口も増えた。社会階層が分化した。ふつうの人びとのほかに、商人や職人や、軍人や王さまや、官僚や神官がいます。複雑な社会のなかで、人びとはさまざまな人生を歩みます。職業を変わったり、出世したり落ちぶれたり、戦争に駆り出されたり難民としてよその土地に移住したり。人びとの生き方が何通りもあるということは、人びとの考え方も何通りもあるということです。
広い場所には、さまざまな文化をもった人びとが集まります。さまざまな人種、さまざまな民族の人びとが集まります。死んだらどうなるか、の考え方も違います。これが、「宗教の違い」として意識されます。
いくつも宗教がある。それは、死んだらどうなるか、の考え方がいくつもあるということです。いくつも宗教が出てきてどうなったかというと、大部分は廃れてしまいました。けれどもそのうちいくつかは、信じる人びとの人数が増えて生き残りました。それが「大宗教」です。大宗教は、社会を丸ごと呑みこんで、文明につくり変えました。そうした文明は現在も大きな勢力を保っています。
いま、世界には、四つの大きな文明があります。どれも、宗教を土台にしています。
・ ヨーロッパ・キリスト教文明 ……キリスト教を土台にしている
・ イスラム文明 ……イスラム教を土台にしている
・ ヒンドゥー文明 ……ヒンドゥー教を土台にしている
・ 中国・儒教文明 ……儒教を土台にしている
この本では、これらの宗教が、人間は死んだらどうなると考えているのか、詳しく追いかけることにします。それぞれの宗教について調べて、もの知りになることが、目的ではありません。自分で納得して、そうだと思える考え方を、選び取ることが目的です。もしかしたら、どの考え方にも納得できないかもしれません。(最近、そういう人びとが増えています。)そういう場合には、ほかにどういう考え方があるのかも、わかる限りで紹介することにします。
この本のタイトルは、『死の講義──死んだらどうなるか、自分で決めなさい』です。こんな本を読んでいると、変な目で見られるかもしれません。縁起でもない、と。いやいや、決して怪しい本ではないですよ、と説明してあげましょう。
この本を読む理由。
死んだらどうなるかわからないので、怖くて、心配で、読むのではありません。もちろん、怖くて、心配で、困って読むのでもかまいません。でもほんとうは、しっかり生きるために読む、のです。
死んだらどうなるのか、死んでみるまでわからない。それなら、死んだらどうなるのかは、自分が自由に決めてよいのです。宗教の数だけ、人びとの考え方の数だけ、死んだらどうなるのか、の答えがあります。そのどれにも、大事な生き方が詰まっています。人生の知恵がこめられています。それは、これまでを生きた人びとから、いまを生きる人びとへのプレゼントです。
これより大きなプレゼントがあるでしょうか。私の役目は、そのプレゼントを、読者の皆さんに届けることです。
そこで、読者のみなさんに、約束します。
中学生でも読めるように、わかりやすく書きます。
少しむずかしい言葉を使うときは、説明や注をつけます。
頭に入りやすいように、かみ砕いて話を進めます。
人間が死んだらどうなるのか。この本にあるように、ほんとうにいろいろな考え方があります。そしてどれも、よく考えられています。選りどり見どりです。
人間が死んだらどうなるのか、いろんな考え方に触れるのはよいことです。とりあえずどれかに決めてみるのもよい。より深みと奥行きのある生き方を実感できます。
■新刊書籍のご案内
☆☆読売新聞書評面(2023/2/5)掲載で大きな話題!「人生を変える一冊」として読まれています!!☆☆
☆ロングセラー、重版続々!☆
西成活裕氏(東京大学教授)推薦
「この本に、はまってしまった。私たちは『死』を避けることができない。この本を読んで『死後の世界』を学んでおけば、いざというときに相当落ち着けるだろう。」
佐藤優氏推薦
「よく生きるためには死を知ることが必要だ。」
山口周氏推薦
「宗教の本質は死生観に出る。死を考えることで生を考えることができる。」
病理医ヤンデル氏絶賛
「とんでもない本だった。語彙が消失するほどよかった。」
「死」とは何か。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教はもちろん、ヒンドゥー教、仏教、儒教、神道など、それぞれの宗教は、人間は死んだらどうなるか、についてしっかりした考え方をもっている。本書は、現代の知の達人であり、宗教社会学の第一人者である著者が、各宗教の「死」についての考え方を、鮮やかに説明するコロナの時代の必読書。
宗教の、どれかひとつを選んで、死んだらどうなるか、考えてみる。ちょっとやってみる、をお勧めする。それは、運命の出会いかもしれない。とのべておきながら、反対のことを言おう。どの宗教を選んでも、結局は同じことですよ、と。
なぜか。それはどの宗教も、いまの時代を真面目に生き、でも相対主義に苦しむふつうの人びとの、プラスになるに決まっているから。科学と常識だけでは満足できなかった、ぽっかり空いたあの偶然の空白を埋めて、自分なりの確信をもって他者と共に歩むことができるから。
宗教をひとつ、選んでみなければ、宗教のことはわからない。その宗教だけでなく、どの宗教のこともわからない。その意味で、どの宗教を選んだとしても、結局は同じことなのである。
人類の最大の知的財産である宗教をわからないままで、生きていると言えるだろうか。ささやかな本書を手がかりに、宗教の豊かさを味わってくれる人びとがひとりでも多いことを願っている。(本書より)