北杜夫の作品と聞いてすぐに思い出されるのは、「どくとるマンボウ」シリーズのほのぼのとした雰囲気だろう。だが同時に、北は純文学作家でもあり、『夜と霧の隅で』では芥川賞を受賞している。純文学作家・北杜夫の代表作として、劇作家の平田オリザさんが挙げるのは『楡家の人びと』。あの三島由紀夫が「戦後最も重要な小説の一つ」と称賛するほどの名著だが、その魅力はどこにあるのか。(朝日新書『名著入門』から一部抜粋、再編集)
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北杜夫は不思議な作家だ。歌人斎藤茂吉の次男であるが、しかし日本文学の、どの系譜にも属さない。孤高というのとも違って、ある種ひょうひょうとした存在感がある。
作家としての本格的なデビューは小説ではなく『どくとるマンボウ航海記』(一九六○年)。これがベストセラーになると同じ年に、一転、ナチスの戦争犯罪を背景とした『夜と霧の隅で』で芥川賞を受賞。一躍、人気作家となった。
代表作『楡家の人びと』は、その二年後に連作が開始される。北氏が敬愛するトーマス・マンの『ブッデンブローク家の人々』を強く意識して『楡家の人びと』は書かれた。前者がドイツ近代文学の集大成のような重厚な作品であるのに対して、後者は軽妙洒脱、どのような悲惨な場面でも常にそこはかとないユーモアが漂っている。どちらがすぐれているというのではなく、二つの国の文学の気風とでも呼ぶべきものが、いずれも余すところなく表れている。
『楡家の人びと』は、精神科の病院を経営する医者一家の三代の栄枯を描いた三部からなる長編である。第一部は大正期の全盛時代、第二部は昭和の開戦まで、そして第三部が戦時下の生活から終戦直後まで。
第一部の快活さから徐々に、本当にゆっくりと、日本社会が息苦しくなっていく様が描かれる。それは小説の表に出ることはなく、ひっそりと基調低音のように続いていく。
この小説では、一家の盛衰を描きながら、大正昭和の主な出来事が過不足なく取り上げられる。『フォレスト・ガンプ』の小説版のようなものだと思ってもらえばいい。