病苦にもがいた正岡子規から学ぶ、死の直前まで「生きがいを見いだす」姿勢とは写真はイメージです Photo:PIXTA

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」――大変に有名なこの歌は俳人・正岡子規の代表作で、教科書などでも取り上げられている。子規は、生涯で20万以上の歌を詠んだ。加えて数々の随筆も残していて、本稿で取り上げる『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)』は、死の2日前まで書かれていたという。子規の半生は病気との闘いだったが、筆を執るモチベーションはどこから湧いていたのだろうか。また、子規の「病との豊かな向き合い方」には、どのような知恵が潜んでいるのだろうか。(ライター 正木伸城)

現在の日本語文
=口語体の文章を生んだ立役者

 子規(本名・常規/つねのり)は、江戸時代末期、1867(慶応3)年に伊予・松山で生まれた。明治が開幕したのは彼が満1歳で、国家主義に揺れる激動の時代だった。幼少期から政治家になることを夢見た子規だったが、小さな藩の出身で、病気も患っていたため、これがかなわない。そこで彼は文筆業に精を出す。職業としては新聞記者を選び、日清戦争時には従軍して取材もした。

 当時の日本は「近代化の歩み」が顕著だった。時代は、「ある課題」を要請していた。それは、「社会を円滑に動かすために、誰もが読み書きできる『共通の言葉』を整理して使えるようにしなければならない」ということだった。

 当時、日常の話し言葉とは違う「古語」をもとにした書き言葉=文語体は使われていたが、日常語をもとにした文字表現=口語体は未整備で、口語の文章はまだ市民権を得ていなかった。この「口語体文章の待望」に応えた一人が、正岡子規である。話し言葉を、書き言葉にもできるようにしたのだ。

 1888(明治21)年、21歳の時に子規は初めて喀血(かっけつ、せきと共に血を吐くこと)した。翌年その激しさが特に増し、以後、彼は死ぬまで病と向き合った。そんな中、新しい日本語の文章や俳句、短歌を編み出すことに全力を注いだ彼の情熱には驚かされる。子規の覚悟は、歌になった。

「卯の花をめがけてきたか時鳥(ほととぎす)」
「卯の花の散るまで鳴くか子規(ほととぎす)」

 卯(うさぎ)年に生まれた子規は、鳴いて血を吐くといわれる「ホトトギス」に自身をなぞらえた。彼は、俳号を「子規(しき=ホトトギス)」とし、「正岡子規」と名乗るようになった。