「働けど働けどなお我が暮らし…」石川啄木の短歌が現代日本人の福音になる理由石川啄木像(北海道・啄木小公園) Photo:PIXTA

2022年は歌人・石川啄木の没後110年に当たる。彼の歌からは、彼がしばしば生活面で挫折し、貧困に苦しみ、深い寂しさにさいなまれた心情を感じる。一方で、時代を先取りする思想と感性が反映されてもいる。啄木は、わずか26歳でこの世を去った。しかし、彼が残した散文や歌、批評などの「妙味」は、人々の心に深く残り、今なお愛されている。本稿では、彼の歌集『一握の砂』を通じて、石川啄木の魅力に迫りたい。(ライター 正木伸城)

才覚あふれるも
社会に適応できず挫折多き人生

 石川啄木研究で知られる今井泰子は、『石川啄木論』の章名の一つに、唱歌「仰げば尊し」の一節「身を立て 名をあげ やよ 励めよ」を用いた。

 啄木が生まれた当時の日本人の多くは、まさにこの歌詞のごとく、幕末から明治に至った勢いのままに、「列強諸国に追いつけ、追い越せ」と自らを鼓舞していた。「進歩こそ善」とでもいうべき“神話”が共有されていた。そんな熱狂すさまじい1886(明治19)年に、啄木は岩手県に生を受けた。幼少期を過ごしたのは、渋民村(現・盛岡市渋民)である。

 幼い時の啄木は、類いまれなる優秀さを発揮した。1歳早く渋民尋常小学校に入学した彼は、周囲がみな年上という環境の中でも、首席の成績を残した。歌の才覚にもあふれ、1901(明治34)年12月から翌年1月まで、地元紙「岩手日報」へ計25首もの歌が掲載された(当時、啄木は中学生)。高く評価された啄木は、その後も何回か、同紙で連載を書いた。

 一方で、啄木は、たびたび挫折を味わった。経済的な事情などから中学を退学。上京して中学校編入を試みるも失敗した。1905(明治38)年には、彼が主幹となり文芸誌を出版するが、創刊号のみで途絶え、経済的に困窮する。小説を書いても鳴かず飛ばずで、北海道で函館日日新聞社の記者となった直後には、火事で新聞社が焼失。その後も、新聞の仕事を得られることはあっても、長続きせず、職を転々とした。

 啄木は、自らの才能に自負を抱いていた。が、こうした経緯もあり、彼は天才意識を捨て始める。1907(明治40)年、「盛岡中学校校友会雑誌」に寄せたエッセーでは、「適者生存の語あり。思ふに、我等恐らくは今の世に適さじ」と書いている。適者生存=時勢に乗って力を得て生きることが、自分はできていないというのだ。