集中治療室写真はイメージです Photo:PIXTA

2023年5月、世界的大流行となった感染症「新型コロナウイルス」は感染症法上5類に引き下げられ、コロナ禍はひとつの節目を迎えたといえる。この3年間、私たちはさまざまな選択を迫られてきた。とくに医療現場は「人工呼吸器やワクチンは誰に優先すべきか?」など、人命に関わる選択の連続だっただろう。過去、新型インフルエンザ流行期にWHOの「パンデミック対策の倫理指針を考える部会」に参加した哲学者・広瀬巌氏が、コロナ禍で生じた倫理的問題について論じる。本稿は、広瀬巌『パンデミックの倫理学 緊急事態対応の倫理原則と新型コロナウイルス感染症』(勁草書房)の一部を抜粋・編集したものです。

規範倫理学の立場を
明らかにする

 倫理学は大まかにいってメタ倫理学、規範倫理学、応用倫理学、これら3つの領域から成り立っている。

 メタ倫理学は最も抽象的な領域で、善、悪、正しさ、義務、徳などの最も基本的な規範概念が言語、感情、世界、信念、欲望などとどう関係しているか、関係していないかを探究する領域である。メタ倫理学を議論するには形而上学、言語哲学、認識論などのいわゆる「分析哲学の中核領域」(これらの領域が現在でも「分析哲学の中核領域」であるかは議論の余地があるが)の知識が必要である。

 規範倫理学は善、悪、正しさ、義務、徳などの基本的な規範概念が互いにどのように関係しているか、関係していないかを探究する領域である。

 応用倫理学は規範倫理学を踏まえて、医療、環境、ビジネス、家族など個別の文脈で、善、悪、正しさ、義務、徳などが具体的に何であるのかを探究する領域である。

 本稿は新型インフルエンザや新型コロナウイルス感染症への対応策という個別の文脈の倫理を主題としているので、一義的には応用倫理学の研究である。しかしながら規範倫理学の研究を踏まえない応用倫理学の研究は、基礎をしっかり施工しなかった家屋のようなもので、安心して読みすすめることができない。

 そこでまず、応用倫理学の分析を始める前に、本稿がどのような規範倫理学の立場をとっているかを明らかにすることから始めたい。結論から言えば、どの主要な規範倫理理論にも支持されるようなごく常識的な原則を本稿はとっている。

 規範倫理学には大まかにいって、3つの競合する主要倫理理論がある。第1に功利主義に代表される帰結主義、第2にカント主義に代表される義務論、そして第3にアリストテレスなどに代表される徳理論である。

 ごく大雑把に言うと、これらの理論は行為の正・不正がどのような規範概念によって規定されるかを巡って対立している。帰結主義では、行為が結果的にもたらす善と悪の総計によって、その行為の正・不正を判断する。義務論では、行為の正・不正は行為が結果的にもたらす善と悪によって決められるのではなく、意志、義務感、自己所有権などによって決められる。徳理論によれば、人間として素晴らしい人が行うと考えられる行為が正しい行為だとされる。

 これらの定義はごく大雑把で、正確ではないし、これら3つの理論のほかにも倫理理論は存在する。倫理理論の対立は膨大かつ複雑で、本稿のみでは説明しきることはできない。

 しかしどの理論も否定することがない大雑把な倫理的命題がある。それは「反証が提示されない限り、より多くの人の命を救うことは正しい行為である」という命題である。