変化の激しい時代こそ、従来の延長線の成長ではなく、「異次元の成長」を狙うべきである。限界を超える思考、『桁違いの成長と深化をもたらす 10X思考』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を著した名和高司氏に、その執筆動機、概要、根幹の思想を詳細に聞いた。連載2回でお伝えする前編では、ちまたにはびこる二項対立思考の弊害、生きる上での「志」の意義、何かを実現する上で有効な思考法、それをビジネスに生かす際の要諦をまとめた。(聞き手/ダイヤモンド社 論説委員 大坪亮、文/奥田由意)
幸福と成長は二項対立ではない
「ずらし」による二項動態が肝要
――まさに博覧強記の書で、「巨人の肩の上に乗る」という言葉を思い浮かべました。本書を水先案内として、紹介される名著の数々を読んでいきたいと思わせるブックガイド的な面もあります。本書の「おわりに」に、2018年に出版された『コンサルを超える問題解決と価値創造の全技法』の続編として構想されたと書かれていますが、改めて執筆の動機を教えてください。
名和高司(以下、略) 変化が常態化する時代にあって、しっかりとした視座や視点を提示したいと思ったことが第一にあります。小手先の方法論だけでは、物事の本質を捉えることはできません。
第二に、先人から学んで、それをもう一度組み替え直して、伸びやかな未来を開く、脱学習の姿勢が大切だ、と言いたかった。何かを学んで終わりではなく、絶え間ない学習と脱学習、それをやり続けなければならない。一橋大学名誉教授の野中郁次郎先生は「流れ」とおっしゃっていますが、「流れている」ところに本質があります。
第三に、私自身が学び、思考してきたことをまとめておきたかった。それによって自分の視座・視点をつかめると思い、同時に、進化の方向性を言語化し、読者と共有し、次代を切り開くために役立ててもらえたら、と考えました。
――「はじめに」では、巷間言われる「幸福と成長はトレード・オフ」という考え方は誤りで「実際は両立する」と書かれています。AかBという二項対立に陥りがちな今日の思考傾向を打破する「二項動態」は、伝えたい一つの視座でしょうか。
物事をデジタルに二項対立として考えるのは確かにわかりやすいし、合理的でロジカル・シンキングにはうってつけです。ハーバード大学のマイケル・ポーター教授はデジタルに割り切るのが得意です。しかし、実際には、割り切れないことの中にこそ味わいなり、深みなりがあって、それをしっかりと見極めることで、イノベーションが起こっていく。私は、コストと価値を両立させる「スマート・リーン型」を提唱した『学習優位の経営』を2010年に著したときから、そう言い続けています。割り切れない2つのものを両立させよう、二項対立を超えようとすることがイノベーションの本質であり、その思いが進化の原動力となるのです。
2つのもののどちらかに偏ったスタンスを取らないのは当然として、低いレベルでバランスさせたところで、それは単なる妥協にすぎない。すさまじい緊張感の中、一見平衡に見えるけれど、その中では細かいダイナミズムがあり、さまざまな動きを融合させて成り立っているような状態の中で動き続けるのです。これは生物学者の福岡伸一さんが「動的平衡」と呼ぶあり方です。成長を捨て幸福に過ごすとか、あくまで成長にこだわるといった、単純なものではありません。
さらには、ドイツ的なアウフヘーベン(止揚)ではなく、フランス的な「差延」(ずらし)の手法を用いるということです。私はドイツ系でもカントは批判的で良いと思っていますが、ヘーゲルは何かガチガチに固めようとするところがあって、アウフヘーベンする思考は好きではない。それよりは、フランス系ジャック・デリダの「差延」、ずらしていくというあり方を採りたい。ずれることによってそこには新しい場が立ち現れる。そこに次のイノベーションが生まれる。これを私は大切にしています。
『人新世の「資本論」』の著者、斎藤幸平さんは、幸福と成長という二項対立に対して弁証法的に脱成長を唱えていますが、そのようにアウフヘーベンしようとすると確かにきれいなのですが、それだとイノベーションは生まれません。
――日本人が、幸福と成長という二項対立にとらわれ、両者は二律背反するという思考に陥ってしまうと、日本は残念なものに終わってしまうと懸念されているのでしょうか。
そうです。今『平成の失敗』という本を何人かで書いていますが、私は「成熟という名の衰退」が、失われた30年を言い表すにふさわしいと考えています。日本もようやく成長の段階から成熟の段階に進んだなどというと、良いことのように聞こえますが、そこには大きな陥穽がある。単調な成長を良しとするわけではなく、脱成長や成熟でもない、別の形の進化を考えるべきだと思います。
最近、幸福やウェルビーイングということが盛んに言われていますが、私はそれに対しても警鐘を鳴らしています。攻めるか諦めるかの二択で、諦めた者が幸福主義の人たちではないか。この時代にウェルビーイングというのは、自分と自分の周りさえ良ければいいという利己主義以外のなにものでもないのではないでしょうか。少し想像力を働かせれば、まだまだ世界は幸福ではないし、自分たちとは違う環境にいる人たちが多いことに気づくはずで、そこにこそ、われわれが進化できる、価値を作るべき余地があるのに、幸福という名の小さなユートピアに逃げ込んでどうするのかと思います。
そのようなユートピアではなく、もちろんディストピアでもなく、つまり二項対立ではなく、プレトピアという未完成ではあるが、次のことが起こる場、何かが起こる場を私は想定しており、それが動的平衡のような状態で、イノベーションや進化の磁場になると考えます。常に未完成なのですが、それなりにその場における一つの姿があって、常に動き続けている。われわれはそこで生き抜く覚悟を持たなければならない。
もし幸福を求めるのなら、それは座して待っていてはいけない。「幸福の女神には前髪しかない」。古代ギリシャの言葉ともレオナルド・ダ・ビンチの言葉ともいわれていますが、黙ってじっとしていては駄目で、自分から積極的にしかけていく動きが必要ということです。
僧侶の藤田一照さんについて私も自著で言及していますが、最新の『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』8月号で登場されていて、ambition(野心)とaspiration(希求)の違いを論じておられます。私もずっと言ってきたことで、ambition(野心)は外から規定されたものであり、かつ利己的な要素があるけれども、aspiration(希求)は内から湧き出るもの、語源的にinspire(霊感を与える、人を動かす)と同じで、自分の中に鼓舞する思いがあるということ。それを見いだすべきなのです。私が本書で言っている「志」そのものだと思っています。これがなければ、人間は正しく進化しない。
――近年のご著書では、企業における「パーパス経営」を論じ、個人でもパーパス、名和先生の言葉では「志」の意義を説かれています。本書では、吉田松陰が松下村塾で高杉晋作などの門下生に問い続けてきた「君の志は何ですか?」の話も出てきます。そこでお伺いしますが、先生の「志」は何でしょうか。
きれい事から言ってしまいますと(笑)、学生や経営者、一人ひとりの心に火をつけたいということです。大学の教員としては学生に対してそうですし、企業でお話をする機会があるアドバイザー的な立場としては経営者やそこで働く人をたきつける。否、たきつけるだと押し付けたミッションになってしまうので、彼らが内側から志を燃えたぎらせられるような、導線を作る。これがおおっぴらに公言できる、私の一つの志です。
一方で、「ひそかな楽しみ」とも言うべきものがあり、実は彼らを通じて、私が自己実現している面がある。自分ではできることは限られますが、本書でも言及している作家の平野啓一郎さんの著書『私とは何か――「個人」から「分人」へ』における「分人」として考えると、孫悟空がいっぱいいるようなもので、自分の分身がいろんなことをしてくれる。私が乗り移って、私が伝えたDNAが彼らを通じて、自己実現しているようなものです。
そうすることで、私なりの「分人主義」によって、結果的に、擬似的に、組織や文化や社会や世の中を変えていく、進化させていく経験をしている。自分もそこに関わっているという実感がある。自作自演のドラマを作るよりも、いろいろな人たちにドラマを演じてもらえば、自分の10倍化、100倍化ができて、まさに自分の10Xができる。
――平野さんの著書『私とは何か』にも出てきますが、それは相互主義ですね。
まさにそうです。一方的に与えるのではなく、一方的に相手の何かを「使う」わけでも、誰かを使嗾するわけでもなく、お互いに刺激し合う。私が夢を託している人たちはさまざまな局面にコミットして、命懸けで切り開いていく人たちです。彼らに「私なりに火をつける」を、必死にやっています。一つのところに関わってしまうと、10Xはできない。ドラッカーが「傍観者の時代」と言っていますが、それに近い。傍観者というよりは、かなり疑似当事者的な感覚ですけれども。