その一方で故郷に残した妻のマサには、「裁縫に励み、歌も勉強せよ」「主人の自分に尽くすように(高杉の)両親に孝行を尽くせ」と高みから、教え諭すような内容の手紙を書き送っているのだった。

下関の芸者・うのと共に
四国に愛の逃避行

 江戸にも京都にも馴染みの芸者がいたが、江戸の芸者は「高杉さんは静かなお酒だった」と語り残している。江戸から故郷に戻り、奇兵隊を作ってから宴席での過ごし方が変わったのだろうか。

 下関では「此の糸(本名うの)」という名の芸者にほれ込み、奇兵隊のパトロンでもあった豪商の白石正一郎に身受けの金80両を出してもらい、愛妾に。

 保守派に命を狙われ、愛妾うのを連れて四国に逃げ延びた際には、門付の芸人を装って民家の軒先で三味線を爪弾きもしたという。だが、幕府による2度目の長州征伐が行われた頃から、肺病が悪化。寝つくようになる。時代の激動期に療養生活を余儀なくされ思いが鬱屈したのだろう。気難しく短気な病人となった。

 うのが必死に看病し、かねてより親交のあった野村望東尼も加わった。この老尼は福岡藩士の娘で尊攘派として知られ、高杉を匿かくまい、流罪にされたこともある人物。歌人としても著名であった。望東尼は、うのと看病にあたりつつ、寝たきりの高杉に和歌を教えた。

 やがて、高杉の病が重いことを知って、萩から高杉の両親と正妻のマサが下関までやってくる。妻と愛妾が顔を合わせることになり、全員が気まずい思いをした。その後、自分には居場所がないと悟ったマサは、萩へと去る。

高杉亡きあと
墓守させられた妾

 高杉は大政奉還を目前にした慶応3(1867)年4月、満27歳の短い生涯を終えた。残された愛妾うのは、まだ25歳。だが、伊藤博文や山縣有朋から、高杉の墓近くに一寺を与えられ、尼となり墓守としてひっそりと生きるように要求される。

 うのは高杉と出会い、大きな渦の中に巻き込まれてしまったが、元来はおっとりとした性格で、明るくにぎやかなことが好きな芸妓だったという。

 本人は高杉を看取った後は、ふたたび花柳界に戻りたいと願っていた、とも。だが、高杉を尊敬する男たちは、それを許さなかったのだ。

 うのが高杉と知り合い暮らした年月は、長く見積もっても4年。しかも、後半はひたすら看病をする日々だった。