松下村塾の門下生で兄弟分の間柄だった高杉晋作と伊藤博文。彼らは理想に燃える一方、奔放な女遊びに走った。そんな2人を支えたそれぞれの妻マサ、梅子。そして高杉の妾・うの……時代に翻弄されながらも運命を切り拓いた女たちの生涯を追う。本稿は、石井妙子『近代おんな列伝』(文藝春秋)の一部を抜粋・編集したものです。
萩城下一の美女で
名家出身の本妻・マサ
高杉晋作は天保10(1839)年、現在の山口県萩市に生まれた。家は長州藩の名門。父は藩政に与る身であった。その跡取り息子として大事に育てられたが、次第に家庭の封建的な価値観に反抗するようになっていく。
危険思想の持ち主として父をはじめとする上級藩士たちから疑いの目で見られていた松下村塾の主宰者、吉田松陰に心酔し、親に隠れて入塾したのもそれ故のこと。塾ではその出自もあって一目置かれ、次第に頭角を現していった。
塾では当時、志士の間で流行していた「狂」の字が好まれ、高杉も号を「一狂生」とした。松陰が、「狂士」。塾生仲間の山縣有朋は「狂介」。革新を果たすべく常識に抗うという意味が、この一字に込められていたようだ。
松陰は生涯、独身を貫き女性とは肌を交えなかったと言われているが、禁欲的な師とは真逆に、弟子である彼らはその点、放縦であった。
萩を離れて京都や江戸という先進都市を目の当たりにした興奮もあったのだろう。また、命の危険が常に付きまとうため、刹那的に異性を求めるという面もあったのか。尊王攘夷を論じながら、彼らは先々で遊廓やお茶屋に入り浸り、競うように遊女や芸者と関係を持った。
師である松陰は江戸で詮議を受け処刑されるが、高杉はその時、藩命により親元に戻され、地元の萩にいた。高杉の父は息子の将来を案じ、松下村塾の仲間から引き離そうと考え、結婚をすすめた。相手は萩城下一の美女といわれた、長州藩の名門井上家の娘マサ。高杉は言われるままに、このマサと結婚した。しかし、父の思惑は外れ、美貌の妻を得ても彼の行動は変わらなかった。
文久2(1862)年、幕府随行員として上海に赴いた彼は、欧米人に中国人がこき使われる清の現状を見て衝撃を受ける。帰国すると、西洋と国交を結ぼうとする幕府の方針に、これまで以上に強く反発し、過激な倒幕運動に走った。品川の御殿山に幕府が建設を進めていたイギリス公使館を、弟分の伊藤博文と焼き払ったのも、このような考えに依る。
さらにその後、高杉は、港町の下関で商人や農民も入隊することができる軍隊を結成する。それが奇兵隊である。
幕府の考えに従おうとする長州藩の保守派と戦い、さらには幕府が派遣した長州征伐軍とも戦った。その過程では薩摩藩と手を組み、薩長同盟の締結も成功させている。
忙しさに比例するように、妓楼での遊びも激しさを増していった。下関では毎晩のように酒席に芸者を大勢呼び、どんちゃん騒ぎをしていたという。