正妻のマサが高杉と夫婦らしく暮らした年月も、実質は2年ほどである。マサは武士の妻として高杉の両親に仕えつつ、ひとり息子を育て、大正11(1922)年に没した。享年77。

 一方、うのには子どももおらず晩年は誰もいない墓地で、ひとり高杉の墓に向かい、三味線を弾き、酒を飲んでいたという。明治42(1909)年、没。享年67。維新ファンはふたりの関係を美談として語るが、果たして、うのは自分の人生を「面白く」感じていたのだろうか。

「狂」の男は人生を駆け抜け、死後、維新の英雄とされた。だが、巻き込まれた女性たちの思いは計り知れない。

下関の花柳界出身
伊藤博文の妻・梅子

 明治政府の高官夫人には花柳界出身者が多い。大半は新橋や京都で占められているが、伊藤博文の妻、梅子が身を置いたのは山口県下関の花柳界だった。

 伊藤の女好きは、この時代でも突出していたようで明治天皇にも、「もう少し慎んではどうか」と注意された、という逸話が残されている。だが、梅子と伊藤の絆が揺らぐことは、生涯を通じて一度もなかった。

 梅子は山口県下関の生まれ。父親は沖仲仕で家は非常に貧しく、7歳頃に売られて芸者置屋「いろは楼」の養女になった(諸説ある)。

 伊藤もまた、同じような出自である。父の身分は武士ではなく、貧しい農民。その後、父は子どものいない足軽の奉公人となり、そのまま養子になるが、そうした出であることから、尊王攘夷を訴えて倒幕運動を展開した長州藩の志士たちの間でも、彼は一段低い出身だった。

 しかし、身分を問わずに生徒として受け入れるという理念を掲げていた吉田松陰の松下村塾で彼は必死に学び、松陰からその才能を愛されるのだった。

 その後、松下村塾で長州藩の名門に生まれた高杉晋作に出会い引き立てられて、伊藤の運命は大きく変わる。高杉は伊藤の快活さと何事にも前向きな姿勢を見て、交渉ごとに向いていると見抜き、身分を超えて伊藤を弟分としたのだった。

 高杉の推挙によって、伊藤は江戸に出ることが叶い、さらには長州藩がイギリスに派遣する5人の留学生にも選ばれる。この時、英語を現地で学んだことが、後々、幸いする。

出会いはごみ溜め!?
2人の仰天なれそめ

 伊藤も当初は攘夷を唱え、幕府の開国政策に反対していた志士のひとりだった。だからこそ、松下村塾の仲間と江戸の品川御殿山に建設中のイギリス公使館を焼き討ちするという行動もした。ところが、このイギリス留学を機に彼は考えを大きく改める。