200万部を突破したベスト&ロングセラー『嫌われる勇気』。アドラー心理学の入門書である本書が、これほど多くの人に受け入れられた要因の一つに、「哲人」と「青年」の対話の魅力があげられよう。アドラーに精通する哲人と、全読者の代表とも言える悩める青年の対話は、そのまま共著者である岸見一郎氏(哲人)と古賀史健氏(青年)の関係に当てはまる。両氏はいま、200万部突破を記念して全国の書店でトークイベント・ツアーを敢行中だが、それはまさにリアル哲人とリアル青年のセッションと言える。
そこで改めて哲人と青年の対話を楽しみつつ、アドラー心理学の衝撃的な教えをじっくり考えていただくため、『嫌われる勇気』の重要箇所を抜粋して特別公開する。今回は、アドラー心理学の重要ポイントであり、人生を変え、自由に生きるために不可欠な考え「課題の分離」についてお届けする。(初出:2020年1月28日)
「課題の分離」とはなにか
哲人 たとえば、なかなか勉強しない子どもがいる。授業は聞かず、宿題もやらず、教科書すらも学校に置いてくる。さて、もしもあなたが親だったら、どうされますか?
青年 もちろん、あらゆる手を尽くして勉強させますよ。塾に通わせるなり、家庭教師を雇うなり、場合によっては耳を引っぱってでも。それが親の責務というものでしょう。現に、わたしだってそうやって育てられましたからね。その日の宿題を終えるまで、晩ごはんを食べさせてもらえませんでした。
哲人 では、もうひとつ質問させてください。そうした強権的な手法で勉強させられた結果、あなたは勉強が好きになりましたか?
青年 残念ながら好きにはなれませんでした。学校や受験のための勉強は、ルーティーンのようにこなしていただけです。
哲人 わかりました。それでは、アドラー心理学の基本的なスタンスからお話ししておきます。たとえば目の前に「勉強する」という課題があったとき、アドラー心理学では「これは誰の課題なのか?」という観点から考えを進めていきます。
青年 誰の課題なのか?
哲人 子どもが勉強するのかしないのか。あるいは、友達と遊びに行くのか行かないのか。本来これは「子どもの課題」であって、親の課題ではありません。
青年 子どもがやるべきこと、ということですか?
哲人 端的にいえば、そうです。子どもの代わりに親が勉強しても意味がありませんよね?
青年 まあ、それはそうです。
哲人 勉強することは子どもの課題です。そこに対して親が「勉強しなさい」と命じるのは、他者の課題に対して、いわば土足で踏み込むような行為です。これでは衝突を避けることはできないでしょう。われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。
青年 分離して、どうするのです?
哲人 他者の課題には踏み込まない。それだけです。
青年 ……それだけ、ですか?
哲人 およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと──あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること──によって引き起こされます。課題の分離ができるだけで、対人関係は激変するでしょう。
青年 ううむ、よくわかりませんね。そもそも、どうやって「これは誰の課題なのか?」を見分けるのです? 実際の話、わたしの目から見れば、子どもに勉強させることは親の責務だと思えますが。だって、好きこのんで勉強する子どもなんてほとんどいないのですし、なんといっても親、保護者なのですから。
哲人 誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えてください。
もしも子どもが「勉強しない」という選択をしたとき、その決断によってもたらされる結末──たとえば授業についていけなくなる、希望の学校に入れなくなるなど──を最終的に引き受けなければならないのは、親ではありません。間違いなく子どもです。すなわち勉強とは、子どもの課題なのです。
青年 いやいや、まったく違います! そんな事態にならないためにも、人生の先輩であり、保護者でもある親には「勉強しなさい」と諭す責任があるのでしょう。これは子どものためを思ってのことであって、土足で踏み込む行為ではありません。「勉強すること」は子どもの課題かもしれませんが、「子どもに勉強させること」は親の課題です。
哲人 たしかに世の親たちは、頻繁に「あなたのためを思って」という言葉を使います。しかし、親たちは明らかに自分の目的──それは世間体や見栄かもしれませんし、支配欲かもしれません──を満たすために動いています。つまり、「あなたのため」ではなく「わたしのため」であり、その欺瞞を察知するからこそ、子どもは反発するのです。
青年 じゃあ、子どもがまったく勉強していなかったとしても、それは子どもの課題なのだから放置しろ、と?