『白い巨塔』がもたらした三つの社会的影響
佐藤 近年は医療の世界にも新自由主義が入ってきていますが、健康や命に関わる分野で競争原理を入れることに私は慎重です。価格による調整をすれば、待ち時間の問題は部分的には解決できるでしょう。しかし、それで本当にいいのかという話ですね。
片岡 あまり知られていませんが、日本でも「特診(とくしん)外来」と言って完全予約制で、医師を指名しての外来という仕組みを採用している病院は少なくありません。もちろんこれは自由診療になりますから、患者さんの金銭的負担は大きくなります。
佐藤 特診外来は昔からありますね。山崎豊子さんの小説『白い巨塔』(1965年)で、主人公の財前五郎は食道噴門癌(ふんもんがん)の若き権威で、日本中から彼の診察を求めて患者が集まってくる。だから彼はもっぱら特診患者を相手にしているわけです。
ちなみに、この『白い巨塔』が医療の世界に与えた影響は大きく分けて三つありますね。
一つはインフォームド・コンセントです。患者にはきちんと事実を伝えなければいけない、という問題提起をした。今では信じられないことですが、当時は患者に癌であることを伝えるなんて残酷なことだから、絶対に秘密にすべきだという考えが常識でした。
片岡 当時の医学では癌は「不治の病」扱いされていましたから、癌告知は死の宣告だと思われていたんですね。当時のドラマや映画では家族は胃癌だと知っていても、本人には「胃潰瘍だよ」と伝えるシーンがたくさんあります。
佐藤 黒澤明の傑作『生きる』の主人公(志村喬)も医者から「胃潰瘍です」と診断されるのだけれども、それを鵜呑みにしないで、自分は癌で、そう長くは生きられないと気付くところから話が始まります。
『白い巨塔』に話を戻せば、もう一つの影響は特診に対する批判です。「金持ちや権力者が優遇されるなんておかしいじゃないか」ということから、各病院はそれを縮小していった。と言っても、今、片岡先生がおっしゃったように特診外来そのものはまだあります。ただ、どこの病院でも一般の患者には見えにくい形になっています。
『白い巨塔』の第三の影響は、教授選考における選挙戦の廃止です。医学部の教授を決めるのに実弾(札束)が飛んだり、外部からの介入があったりするのは異常だ、という話になりました。
このように『白い巨塔』は単に小説としての面白さだけでなく、社会的に大きなインパクトを与えたことで話題を呼んだわけです。
ところで「支払うお金によって待遇が変わる」という点では差額ベッドもそうですね。私も個室の差額ベッドに入っていますが、それは贅沢(ぜいたく)をしているわけではなくて、差額ベッドでなければ仕事ができないからです。原稿を書くということの他に、電話連絡もどんどん入ってきますからね。そうした需要はけっこう大きいし、個室の存在は外部に隠せるわけでもないので、これは社会的に許容されていると思います。
佐藤優、片岡浩史 著