AI時代、最重要の教養の一つと言われる「哲学」。そんな哲学の教養が、一気に身につく本が上陸した。18か国で刊行予定の世界的ベストセラー『父が息子に語る壮大かつ圧倒的に面白い哲学の書』(スコット・ハーショヴィッツ著、御立英史訳)だ。イェール大学オックスフォード大学で博士号を取得した哲学教授の著者が、小さな子どもたちと対話しながら「自分とは何か?」から「宇宙の終わり」まで、難題ばかりなのにするする読める言葉で一気に語るという前代未聞のアプローチで、東京大学准教授の斎藤幸平氏が「あらゆる人のための哲学入門」と評する。本稿では、同書より特別にその一節を公開したい。

【思考実験】「頭がいい人、悪い人」がわかる1つの質問Photo: Adobe Stock

扉を取り替えても同じロッカーか?

 一日の授業が終わり、レックスと友だちのジェームズは、帰宅するために持ち物を鞄の中にまとめていた。

「このロッカーが、確かにこのロッカーなのは、どうしてだと思う?」とレックスがたずねた。

「どういう意味?」とジェームズがたずね返した。

「扉を新しいのと交換しても、このロッカーはやっぱりこのロッカーのままかな?」

「そうだと思うけど」とジェームズ。「扉が替わるだけなら」

「じゃあ、扉も含めてボックスごと交換したら? それでも同じロッカーかな?」

「わからない」とジェームズ。「妙なことを考えるんだな」

「場所は変わらないけど、使われている材料は完全に別の物になるよね」とレックス。

「それだと違うロッカーになると思う」とジェームズは答えた。

「そうかなあ……ぼくのロッカーであることには変わりがないけど」

「テセウスの船」という思考実験

 レックスは家に着くと、ジェームズと話した内容を教えてくれた。

「ジェームズとテセウスの船の話をしたよ!」と彼は言った。「船じゃなくてロッカーだけど。扉を取り替えても同じロッカーのままなのかって」

 テセウスの船というのは、大昔からあるアイデンティティに関する哲学パズルだ。レックスは、ミステリー・ファンタジーの『パーシー・ジャクソン』シリーズでその話を読んだらしい。いつか私に教えてやろうと楽しみにしていたようだが、私がすでに知っていたことに驚いていた。このパズルは哲学の世界でもっとも有名なパズルの一つだ。

 私が知っているほうの古典的な話は次のようなものだ。

 テセウスを乗せてクレタ島から帰還した船は、アテネの港に係留された。しかし、年月の経過とともに厚板が腐りはじめた。腐った板はその都度新しい板に交換され、とうとう船全体が新しいものに変わってしまった。

 プルタルコスによると、そのとき港に停泊していた船はテセウスの船なのか、それとも新しい別の船なのか、哲学者たちの意見は分かれたという。

 別の船だと考える人は、こう自問してほしい。どの時点でテセウスの船でなくなったのか?

 最初の板を交換したときか? さすがにそれは違う気がする。古い車のボディパネルを取り替えたとき、新車に替えたとは言わない。屋根を葺き替えても新しい家になるわけではない。物は多少の変化には耐えられる。

 しかし、耐えられるのはどの程度までだろう?

 最後の厚板を交換するまではテセウスの船なのだろうか? それとも途中のどこかで別の船になるのだろうか? 半分以上が交換されたときというのもおかしな話だ。50%まで変わったあとの次の一枚が、残りの50%の違いを一気にもたらすことになってしまう。板は何百枚も何千枚もあるのに、どうしてたった一枚の板が、船のアイデンティティを決定するなどと言えるのか

 半分交換されたあとの一枚では違いが生じないというのなら、どの板にも違いをもたらすような影響力はないのかもしれない。もしかしたら、重要なのは厚板が組み合わされているパターンであって、板そのものではないのかもしれない。その場合は、板が全部交換されたとしても、港に停泊している船はやはりテセウスの船ということになる。

板を捨てずに置いておいたら?

 しかし、安易にその結論に飛びついてはいけない。

 哲学者のトマス・ホッブズは、この古いパズルに新しい要素を追加した。板が取り外されるたびに、古い板がこっそりどこかに保管されるという話を付け加えたのだ(板が交換されたのは腐ったからではなく、汚れがひどくなったからなのだろう)。

 すべての板の交換が終わったとき、やる気満々の造船業者が古い板を使って再び元のものとまったく同じ船を組み立てたらどうなるだろう。

 それは文句なくテセウスの船だ! 同じ部品が同じように配置されているのだから(車を分解して、ガレージの反対側で組み立て直しても、同じ車だというのと同じだ)。組み立て直した船がテセウスの船なら、港に泊まっている船は何なのか? それもテセウスの船というなら、テセウスの船が2隻になってしまう。

視点を変えると「答え」が見える

 このパズルに答えはあるのだろうか?

 私は多くの答えがあると思う。アイデンティティに関する問いの答えは、アイデンティティの何を問うているのかによって違ってくるのだと思う。

 かつてテセウスが甲板の上を歩き、手で触った船に触れたいのなら、すべての板が取り替えられた船はテセウスの船とは言えない。だが、何年も保存され補修されながら伝統を引き継いできた船を眺めたいということなら、港にあるのはテセウスの船だ。

 アテネに旅行してこの船を見てきたあなたが、友だちから「テセウスの船は見たの?」と訊かれて、「見てきた。本当のテセウスの船じゃないけどね」と答えたとしても、何も矛盾はない。アイデンティティに関する異なる考え方を反映しているだけだ。

 このパズルに答えるのが難しいのは、その船がテセウスの船かどうかを問う理由が明確ではないからだ。それを問題にする理由がわからなければ、それがテセウスの船かどうかの判断はできない

 これまで見てきた多くのパズルと同様、テセウスの船のパラドックスも、一見、それほど重要なことではなさそうに思える。しかし、アイデンティティについての問いはさまざまな問題にからんでくる。

 たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵には絶大な価値がある。仮に修復士がダ・ヴィンチの絵から絵の具を削り取ったり、塗り足したりしたら、それでもその絵はダ・ヴィンチの絵なのだろうか? もしそう言えないとしたら、モナリザなどは、これまでに何度も修復されているのだから、もはやダ・ヴィンチの絵とは言えないことになる。

 それはおかしいと言うなら、すべて完全にダ・ヴィンチが描いたままの状態でなくてもダ・ヴィンチの絵だと言うことができそうだ。ならば、どこまで修復の手が加えられると、ダ・ヴィンチの絵ではなくなるのだろう。その答えには何百万ドルものお金がかかっているかもしれない。

 この問いは、個人の存在についての問いに置き換えることもできる。

 今日の私は先週の私と同じか? 同じだとするなら、その根拠は何か? 今日の私と去年の私となら、答えはどうなる? 高校のダンスパーティの写真に写っている私となら?

 私の細胞はゆっくり交換され続けている。そのことが私をいつか別人にするのだろうか? それとも、体はそっくり別物になっても私は私のままなのだろうか? それとも、体のパーツも配置も違ってしまっても、同じ体を持つ同じ人物ということだろうか。

 これもまた、なぜそれを問うのかによって答えは違ってくる。(中略)

 このパズルはここまでにしておこう。あなた自身で答えを考えてほしい。あるいは、あなたにとってのジェームズと会話しながら答えを見つけてほしい。哲学者には対話の相手が必要だ。複数いれば理想的だ。

(本稿は、スコット・ハーショヴィッツ著『父が息子に語る壮大かつ圧倒的に面白い哲学の書』からの抜粋です)