京都国立博物館に展示されている「考える人」Photo:PIXTA

さまざまな考え方にアクセスできる情報化社会においては、「絶対的な真理などない」といった思考停止に陥りがちだ。ここでは哲学作家である飲茶氏が紹介する哲学者ソクラテスのエピソードを通じ、真理探究の意義を探る。本稿は、飲茶『史上最強の哲学入門』(河出文庫)の一部を抜粋・編集したものです。

「人それぞれ」が堕落を生み
考えることを放棄してしまう

 プロタゴラスの「絶対的な真理などない、真理とは相対的なものである」という相対主義哲学。それは、現代人の僕たちからすればとても共感できる考え方のように思えるかもしれない。たとえば、「これこそが絶対的真理だ!」と主張する人よりも、「人それぞれだよね」と言う人の方が、柔軟で視野の広いマトモな思考の持ち主のように見えるのではないだろうか。

 だが、実際のところ、この「人それぞれ」の相対主義は、ある困った弊害を生み出すことがある。それは「人それぞれで、絶対的な真理なんかないんだから、そんなもの目指さなくてもいいんだ」となって、「真理を求める熱い気持ち」を失ってしまうということだ。

 そもそも「絶対的な真理なんてないよね」と言ったって、やっぱり僕たちは「なんらかの正しさ」を見つけていかなくてはならない。どう生きるべきか、どう死ぬべきか、国家はどうあるべきか、なんのために働くのか、そういうことを考えて生きていかなくてはならない。それに、水の「冷たい/暖かい」は人それぞれだから絶対的に決められないとしても、もし、銭湯のような共同風呂があったら、やっぱり「一番最適な理想の温度」を一生懸命考えて、問いかけていかなければならない(そして、えてして世の中は共同風呂のようなものである)。

 だが、相対主義の考えを推し進めて堕落してしまうと、「何事も絶対的に決められないんだからさー、適当でいいんじゃなーい?」とさじを投げてしまい、一生懸命考えることを放棄してしまう可能性があるのだ。

 それは、特に民主主義国家の場合には致命的である。民主主義では、基本的に投票という「多数決」が重視されるわけだが、多数決が有効に働くためには、事前に人それぞれの正しさや価値観や信念をぶつけあって議論し尽くしている必要がある。そうしてはじめて投票という多数決は、「おさまるところにおさまる」ように機能する。だが、みんなが「正しさ」や「こうあるべき」などの「自分の考えを決めるための価値観」を持っていなければ、多数決は有効には働かない。結局のところ、みんながなんとなく多数決に参加するわけだから、クチのうまい雄弁な政治家、すなわち「もっともらしく話をするだけの扇動政治家」の意見ばかりが採用されるようになっていく。つまり、民主主義は、その場のノリで物事や権力者が決まる無責任な衆愚政治へと成り下がってしまうのである。

反則技もいとわない
最強の論客登場

 紀元前400年頃の古代ギリシア。この古代の民主主義国家においても、同様のことが起きていた。

「国家のため!正義のため!みんなの幸せのため!断固たる決意を持って抜本的改革を!」

 プロタゴラスから相対主義の哲学を学んだ政治家たち。彼らは、見せかけだけの言葉を上手に操り、民衆たちから人気を得る術(すべ)を十分に心得ていた。彼らは、決して民衆に向かって真面目に政治の話なんかしたりはしない。だって、真面目に政治を語って、政治に興味のない民衆を退屈させるよりは、ただ耳に聞こえのいい、内容のないキャッチフレーズを繰り返した方が受けがいいに決まってるからだ。

 それにライバルの政治家たちは、みんな相対主義を学んでいるわけだから、下手に「こうあるべきだ!」「こうしよう!」なんて具体的にはっきりと語ったら、相対的な価値観であっさり反論されて、窮地に追い込まれてしまう。だったら、明言を避けて「抜本的改革を!」とか中身のない、なんとでも取れる、おためごかしの決まり文句や政敵の悪口でも言ってた方がよっぽどマシである。落選(無職)のリスクを背負ってまで、真面目に政治のことを語るなんて、まったくバカバカしいのだ。

 そんなどうしようもない衆愚政治の国家に鉄槌をくだす男が現れる。ソクラテス(紀元前469年~紀元前399年)である。ソクラテスは、自らを「大きな馬にまとわりつく虻」と称し、いい加減な政治家たちをガツンとやっつけようと彼らに論争をしかけた。

 だが、相手は、相対主義を駆使した弁論術を操る、当時最強の論客たちである。まともに議論をしても、相対主義の詭弁に振り回されて終わるのが関の山だろう。そこで、ソクラテスはある巧妙なやり方を考えた。