子どもは親の所有物じゃない

 母親から父親ががんだと伝えられた時、高戸さんは両親との接触を控えていたことが功を奏し、うつ病が寛解状態になっていた。主治医から「仕事をしてもよい」と言われ、新しい仕事が決まり、働き始めたばかりだった。

 高戸さんは、また働けることがうれしくて意欲的に仕事をこなしたが、帰宅時には父親への怒りが込み上げ、「私はこれ以上、お前に人生の妨害はされない! 負けるもんか! 私は私の人生を大切にする!」と、一人運転する車の中で涙を流しながら叫んでいた。

【毒親育ち】学歴コンプで娘を殴る蹴る…鬼畜のような父が「末期がんで余命2カ月」とわかった瞬間、湧き上がった感情本記事の著者、旦木瑞穂さんの新刊『毒母は連鎖する 子どもを「所有物扱い」する母親たち』(光文社新書)発売中!

 父親の余命が迫る中、高戸さんは一度だけ父親に面会に行った。父親のためではなく、自分が後悔しないためだった。

 それからまもなく父親は亡くなった。まだ60代前半だった。

「肩の荷が下りたという気持ちと、もうこれ以上父から迷惑をかけられることはないのだという安心感が同時に湧きました。もっと何かすべきだったとか後悔などがあるかと予想していたのですが、涙も出ず、自分でも驚きました」

 父親は50過ぎでリストラされていることから、仕事ができなかったことは容易に想像がつく。おそらく仕事でたまったうっぷんを妻や娘にぶつけていたのだろう。妹のことは溺愛していたというが、甘やかしも虐待だ。

 父親は親として娘たちを育てたのではない。高戸さんはうっぷん晴らしの対象として、妹はペットのようにかわいがる対象として育てたに過ぎないのではないだろうか。

 一方、母親はそんな父親を止めることも高戸さんをかばうこともなく、一緒になって責めなじったり、愚痴や不安をぶつけた。『子どもは親孝行をするものだ』という考えに固執した祖父母や親戚たちが手を差し伸べることはなかった。

 そんな家族や親族に囲まれ、人間不信に陥っていた高戸さんは、友達や教師などに助けを求めることもなかったという。

 現在高戸さんは、母親とも妹とも距離を置いて暮らしている。結局子どもは授からなかったが、高戸さんはこう話す。

「子どもに恵まれなかったことはとても残念でしたが、今考えると、あの不妊治療がきっかけで親の言動に大きな違和感を抱き、私は親と離れるという決意ができました。過去を振り返ることは大変な痛みや苦しみを伴いましたが、私の人生や生き方、そして親について考え直す大きなターニングポイントでした」

 高戸さんはティーコという名前で、X(@teako_survivor)やブログ(teako2020.com)を使い、毒親と離れても、亡くなっても苦しめられ続ける子どもへの影響について発信を行っている。

 一方妹は私立の大学を中退後、父親の反対を押し切ってフリーターの男性と結婚。依存的な母親の性質を利用し、父親の遺産や母親の年金をたかって裕福な暮らしをしているようだ。

 この先、母親が財産や年金を食いつぶされて悲惨な老後を過ごすことになったとしても、子どもを所有物扱いした報いだろう。