現WBC・WBO世界スーパーバンタム級王者・井上尚弥WBA・IBF世界スーパーバンタム級王者・井上尚弥 Photo:Steve Marcus/gettyimages

WBA・IBF世界スーパーバンタム級王者・井上尚弥は、2023年12月26日、WBA・IBF統一王者マーロン・タパレスとの戦いに臨む。プロ25戦25勝(22KO)の“無敗の王者”がまだ20歳だったころ、プロ3戦目を戦った佐野友樹が井上に感じたこととは何だったのか。記者・森合正範氏がインタビューする形で、井上尚弥のある一戦を振り返る。※本稿は、森合正範『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』(講談社)の一部を抜粋・編集したものです。

井上尚弥に敗れたボクサー

 車窓の左手にナゴヤ球場が見えてきたとき、覚悟を決めた。名古屋駅へ到着するのがいつもより早く感じる。

 向かう先には、井上尚弥がプロ3戦目で拳を交えた佐野友樹がいる。既に引退し、対戦からは月日が経っている。今だったら話をしてくれるかもしれない。少し恐怖心を抱きながら、佐野がトレーナーを務める松田ジムに連絡を取り、インタビューの約束を取り付けてはいた。

 もちろん、これまでもボクサーに負けた試合のことを聞くことはあった。だが、踏み込んではない領域があることも知っていた。今回はそこに足を踏み入れようとしているのではないか。

 松田ジムの最寄りである金山駅に着いた。こちらからお願いしておきながらおかしな話だが、足取りが重くなる。ジムに到着すると、既に佐野が待っていた。

 現役を退いて5年。まだ眼光は鋭い。歴戦を証明するかのように鼻は潰れ、ボクサー独特の顔つきをしていた。初対面の佐野と挨拶を交わし、一緒に近くの喫茶店に向かう。

 心配は杞憂に終わり、取材は滞りなく済んだ。佐野にボクシング人生を振り返ってもらい、一緒にポータブルDVDプレーヤーで井上戦を見返した。

「この試合、ときどき見るんですよ」

 佐野はそう言って、場面ごとの心情を明かしてくれた。饒舌ではないが、十分すぎるほど話を聞けた。だが、決してすべてを話してくれたわけではない。言葉を濁す場面もあった。それはボクサーとしてのプライドなのか、それとも、会ったばかりで信頼関係が築けていないからなのか、私には分からなかった。

 昼に訪れ、ジムを後にする頃には外は暗くなっていた。ジムと喫茶店を往復し、5、6時間取材していたのだろう。「チャンピオンにもなっていない僕の話を聞いてくれてありがとうございました」別れ際、佐野はそう言って頭を下げた。名古屋から帰りの新幹線、私は車内で深く息を吐いた。

怪物に敗れた日

 闘いを終えた佐野の視界はぼやけていた。

 2013年4月16日、東京・後楽園ホール。

 四方からリングに向かって雨が降ってくるかのように、歓声とわずかばかりのため息が注がれた。右まぶたから血を流し、腫らした顔でコーナーの椅子に座る。肩の力が抜けていくのが分かった。

「勝者、赤コーナー、イノウエー、モンスター、ナオヤー」

 リングアナウンサーの「モンスター」の部分にアクセントをつけた大きなコールが耳に入ってくる。視線の先にはレフェリーから右手を挙げられている幼い顔、20歳になったばかりの井上の姿がほんやりと見えた。テレビ局のアナウンサーが登場し、勝利者インタビューが始まった。リング上は勝者である井上のものだ。

 試合会場がある5階から4階へと降りた。まずは医務室に行き、ドクターの診察を受け、控え室に戻る。報道陣がどっと入ってきた。右まぶたの傷と右目に氷囊を当てながら、一つ一つの質問に答えていった。

――まずは試合を振り返って、どうでしたか。

「(井上は)強かったし、速かった。テンポ、間の取り方がすごくうまかったです」

――井上選手はどのような印象でしたか。

「20歳の子の強さではないです。今までやってきた選手の中で一番速かった。こんなに顔が腫れたのは初めてです」

――集大成と位置づけて臨んだ試合でしたね。

「自分のボクシングができたかは分からない、でも、諦めないで最後まで闘うという姿勢は見せられたかな」

みんな、井上と闘うなら今しかない

 一通り試合について話した後、一人の記者が問い掛けた。

――井上選手が井岡(一翔)選手や宮崎(亮)選手と闘ったら、どうなると思いますか?

 当時、井岡はBA世界ライトフライ級王者、宮崎はWBA世界ミニマム級王者だった。試合が終わって十数分。まだアドレナリンが出ている興奮状態の頭でプロ三戦目を終えた井上と世界王者が戦う姿を夢想する。その瞬間、佐野は何かスイッチが入ったかのように他の日本人ボクサーに呼びかけた。

「みんな、井上と闘うなら今しかない。来年、再来年になったらもっと化け物になる。歯が立たなくなるぞ」

 リングで対峙した者しか分からない、心からの叫びだった。

動きを読まれている。開始のゴングが鳴る。

 ファーストコンタクトは、井上が上体をかがめ、左のボディージャブから入ってきた。佐野も左を突く。互いにジャブ、ワンツー、ボディーで探り合う。井上のスピードに驚嘆した。

 試合はすぐに動き出す。開始1分20秒。佐野が上体をわずかに下げた瞬間だった。ダイナミックで高く突き上げる左アッパーが飛んできた。この試合で井上が初めて放ったアッパー。網膜裂孔の手術をした右目に直撃し、右まぶたをカットした。この一発で佐野に異変が起きた。