「光る君へ」の平安時代、貴族の家にドロボウが忍び込み放題だった理由寝殿造は、雨戸や板壁などで囲まれていない吹きさらしの家屋。今の家でいえば、ドアや障子がなく、窓を開け放しにしているような状態の家屋だった(写真はイメージです) Photo:PIXTA

大河ドラマ『光る君へ』の舞台となる平安時代。じつは、平安時代の大きな特徴のひとつは、約400年におよぶその「長さ」にあります。これは、江戸時代のはじまりから現代の令和に至るまでの期間にほぼ匹敵する長さ。そして、この400年という長大な時間の中で、現代につづく「日本的」な個性の多くが、誕生することになりました。私たちの国の祖型が定まった平安時代とは、どのような時代だったのか――。今回は『読みはじめたらとまらない 平安400年の舞台裏』(青春出版社刊)から平安時代の人々や公家の暮らしについて抜粋して紹介します。

平安時代の天皇や公家の食生活は?

 平安初期までは、さまざまなことで、中国をモデルにした律令制の時代だったので、天皇や公家の暮らしも、中国の影響を濃厚に受けていました。

 当時の天皇の食事は、午前10時頃の朝食と午後4時頃の夕食の1日2回。清涼殿の大きな部屋に、内膳司(ないぜんし)という役所が調理した料理が運ばれ、品数は5品でした。それが銀製の器に盛られ、天皇は銀製の箸とスプーンでそれを食べていました。それが当時の中国風であり、現在の韓国のスタイルとよく似た方法で、食事をしていたのです。

 時代が下り、平安京遷都から1世紀がたって、遣唐船が廃止され、中国との行き来がとだえると、国風文化が台頭してきます。天皇の食事も、中国風から日本風へと変化します。まず、朝は「干飯」を食べるようになり、場所も清涼殿の奥の小部屋へと移されました。