「ダメな二世」と言われる武田勝頼
信長の下なら手腕を発揮できた?
愚将の第三、「能力があり、実績もある」にもかかわらず、愚将と言われる人々。
たとえば武田勝頼だ。「ダメな二世」の代名詞のように言われる勝頼だが、武田家が最大の所領を得たのは名将の誉れ高い父信玄の時代ではなく、この勝頼の時代であった。とにかく戦いに強い。勇猛果敢で戦略にたけ、徳川・織田連合軍を完膚なきまでに破った三方原合戦でも指揮を執っている。なにより、武田家が惨敗した長篠の戦いから武田家が滅ぶまで7年もかかっていることを見れば、勝頼が「無能の愚将」とは言えないであろう。
ではなぜ、勝頼は愚将に分類されるのか。
おそらくは、この長篠合戦から滅亡までの7年間、家中の疲弊に目をつぶり戦いに明け暮れ、最後は将棋倒しのように家臣たちに裏切られたことが要因の一つであろう。
では本当に、勝頼は愚将か? 面白い逸話がある。勝頼の死を知って、織田信長、徳川家康、羽柴秀吉各々が次のように感想を述べた。
信長は、勝頼の首を前にして「お前は非義不道であったがゆえ、天罰でこうなったのだ。信玄(勝頼の父)は一度京に赴こうと志した。汝が首を京に送り、女童にも見知られよ」とののしった。
家康は、勝頼の首を前に床几(腰掛けいす)から下り「ひとえに若きゆえ、思慮無くこうなられた」と礼を尽くして死を悼んだ。
さて、毛利攻めの最中だった秀吉はどうか。「あたら人(殺すには惜しい人)を殺したる事の残念さよ」と、信長が勝頼を死に追いやったことへの批判めいた発言をしたらしい。秀吉はさらに続けた。
「自分なら勝頼をいさめ、(信長に服従させて)甲斐・信濃二州を与え、関東攻略の先陣とした。そうすれば東国は容易に平定できただろうに」
人材活用の天才であった秀吉らしい言葉である。
実はここに、「愚将へ分類されてしまう能力の高い人物」のヒントが隠されている。
それは、「場所を得ていない」ということ。秀吉の言うように、もし勝頼が織田信長の支配下で手腕を発揮していたらどうであろうか。
勝頼は、武田家を単独で維持する器量はなかったかもしれない。あるいは、当時勝頼が行なっていたような上杉との同盟では、武田家を存続させることは難しかったであろう。しかしもし織田信長の下で、徳川家康のような客将的扱いを受けていたならば、勝頼はおそらく豊臣政権下の島津義久のごとく、敗将でありながら名将の名をほしいままにしていたかもしれない。