歴史には数々の「失敗」がある。この真実を読み解くことで、時を経て繰り返される現代の失敗に向き合う連載『歴史失敗学』。第2回は「愚将」が主人公。中でも、能力や実績があるのにも関わらず愚将と分類されている歴史上の人物を取り上げ、その理由を考察していく。(作家・政治史研究家 瀧澤 中)
卑怯、自分優先、そして…「愚将」の3類型
派閥裏金事件――これを「リーダーの資質」ということで見ると、どうなるか。第三者委員会の報告書風に書けば、「派閥幹部は誰も責任をとろうとはしない。帳簿等については『見たことがない』などと発言している。事件が露見してのちは、自らの潔白を証明することに汲々とし、結果、派閥は解散、組織を崩壊せしめた」
「わたしが悪かった。すべての責任はわたしにある」という人物がここまで出てこないというのは、彼らが国を率いるリーダーになり得ないことを如実に示している。
さて。では派閥幹部は無能な人物であったのかといえば、そうとは言えまい。ほとんどはいわゆる一流校出身。国家公務員に、あるいは大手企業に就職するなどし、海外経験が豊富な者もいる。国政に出た後は何度か主要閣僚や党役員も経験し実績を積んだ。もし書類審査だけならば、彼らは優秀な人物に分類されよう。しかし、「優秀」というには違和感がある。
歴史ではよく「名将・愚将」といった人物評があるが、おそらく後世、彼らは「愚将」に分類されるであろう。能力はあるのに、愚将と言われる。なぜそうなるのか?
愚将には大きく3つの型がある。
第一に、そもそも人間的に問題がある場合。たとえば卑怯な者だ。第二次世界大戦末期、フィリピンで特攻隊の司令官をしていたTは部下を置き去りにして台湾に逃げた。「君たちだけを死なせはしない。自分も最後の一機で突っ込む」と演説をぶって部下たちを送り出していたTだったが、戦後も生き延びて1960年に病没。
エンジン不調で戻った特攻機の搭乗員に「死ぬのが怖いのか!」と叱責した陸軍中将はさまざまな理屈をつけて戦後も生き延び、1983年、95歳の天寿を全うしている。あるいは、あまりに部下への暴力と罵倒が過ぎて、葬儀の際に元部下が誰も参列しなかった将官もいる。
愚将の第二は、自己の栄達を優先し、客観的な情報を無視して組織を崩壊させる者。1944(昭和19)年のインパール作戦で、物資の補給が続かないと危惧する意見を押し切って無謀な作戦を強行し、戦闘以上に飢餓で将兵を殺した牟田口廉也・陸軍中将はその一人と言っていいであろう。ちなみに牟田口は、自身の司令部をメイミョウに置いた。日本で言えば軽井沢のような場所で、熱帯雨林の戦場とは天と地ほどの差があった。
ここまでは、おそらく今後も愚将として残るであろうが、問題は次のケースである。